
19世紀から20世紀初頭にかけて、オスマン帝国は「近代化」=「西欧化」の大改革に挑みました。
タンジマート、ミドハト憲法、青年トルコ革命…名前だけ見ると着実に進んでるように見えますが、結局この近代化は“成功”とは言えず、帝国は第一次世界大戦を経て崩壊してしまいます。
では、なぜオスマン帝国の近代化はうまくいかなかったのか?――その背景をじっくり見ていきましょう。
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まずは、オスマン帝国がどんな改革に取り組んでいたのかを整理しておきましょう。実はけっこう本気で変わろうとしていたんです。
上記のような改革によって、見た目はヨーロッパ式の「法治国家」「中央集権体制」が整いつつありました。つまり「制度」だけを見れば、確かに西欧型国家の形は整っていたんですね。
オスマン帝国の近代化が本質的にうまくいかなかったのは、次のような構造的な矛盾があったからなんです。
ヨーロッパ式の近代国家って、「一つの国民」「一つの言語」「一つの法」が基本。でもオスマン帝国はムスリム・ギリシャ正教徒・アルメニア教徒・ユダヤ人・クルド人…など、超多民族・多宗教国家。
こんな状態の国を“一つの国民(オスマン人)”にまとめるのは無理があったんです。
いくら法や議会を作っても、それを運営する人材・文化・教育基盤が追いつかなかった。
とくに田舎では「近代化?なにそれ?」状態で、実際には旧来の慣習や宗教的秩序のまま動いていた地域も多かったんです。
つまり、制度だけ“西欧風”にしても、社会の足元は変わらなかったということ。
近代化って、お金がかかるんです。でもオスマン帝国は19世紀からヨーロッパ列強に借金漬け、インフラ整備や軍事改革も外資や外国人顧問頼みで、結局自主独立の近代化ができなかったんですね。
こういった問題は、現代の“半植民地的状態”とかなり近い構造でした。
青年トルコ革命で「立憲主義!」と叫ばれたものの
といった問題により、その後の政権(統一と進歩党)は一党独裁に近い形で権力を握り、自由な言論や政党政治は逆に抑え込まれていくようになります。
オスマン帝国の近代化は、制度だけを真似し、中身が追いつかなかったという“空回り”が最大の失敗ポイントでした。
そしてそれは
という帝国が抱えていた根本的な問題を、むしろ表面化させてしまったとも言えます。
オスマン帝国の近代化(西欧化改革)が失敗した最大の理由は、伝統と制度、宗教と世俗、多民族と中央集権――このすべての“はざま”で揺れてしまったことにあります。
外から見れば「立憲国家」でも、内側では分裂・矛盾・混乱が渦巻いていた。
だからこそ、制度改革だけじゃ救えなかったんです。