
「ヨーロッパの瀕死の病人」――このあだ名、実はオスマン帝国につけられたものなんです。
あれだけ広くて強かったのに、19世紀に入ると「もはやいつ死んでもおかしくない」って言われるようになるなんて…ちょっとショックですよね。
でも、そう呼ばれるようになったのには、ちゃんと理由があります。この記事では、オスマン帝国がなぜ“瀕死の病人”と呼ばれるほど弱体化したのかを見ていきましょう。
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オスマン帝国が長く栄えた理由のひとつは、その軍事力と中央集権的な統治体制。でも、時代が進むとその強みがむしろ重荷になっていったんです。まるで「動けない巨人」のように、時代の変化についていけなくなっていきます。
最盛期にはヨーロッパを震え上がらせた軍隊も、18世紀にはすっかり古臭くなっていました。
とくにイェニチェリ軍団は既得権益にしがみつく保守派になってしまい、新しい戦術や武器を受け入れない。
その間に西欧諸国は産業革命とともに軍事近代化を加速させ、差はどんどん広がっていったんです。
統治の仕組みも古くなっていました。地方では汚職や権力の私物化が横行し、中央の命令が行き届かないケースも増加。
「帝国」というよりは、ただ名前だけ大きいバラバラ国家になっていたんですね。
そんな中、ヨーロッパではイギリス・フランス・ロシアなどの列強が次々と力をつけていきます。
彼らにとってオスマン帝国は地政学的にも経済的にも“おいしい”存在でした。
だからこそ、じわじわと「切り取られていく」運命にあったのです。
オスマン帝国はロシア帝国と18世紀~19世紀に10回以上も戦争しています。
目的は黒海沿岸やバルカン半島の支配権。毎回のように領土を削られ、国力をすり減らす羽目になりました。
オスマン帝国の衰退は、ヨーロッパでは「東方問題」と呼ばれました。
要するに「オスマンが崩れたら、その後どう分ける?」っていう列強の腹の探り合い。
支援してるように見せかけては、自分たちの利益を最大化する動きが続き、帝国は主権を失っていくことに。
外からの圧力に加えて、帝国内部でも大きな矛盾と不満が膨らんでいました。
これが最終的に民族独立運動や体制改革要求として噴き出すようになります。
オスマン帝国にはトルコ人・アラブ人・ギリシャ人・アルメニア人・セルビア人…と、実に多様な民族が暮らしていました。
でも19世紀になるとナショナリズム(民族主義)の流れが強まり、それぞれが「独立したい」と声を上げはじめます。
結果、帝国は内側からもバラバラに引き裂かれていったのです。
近代化の必要性は理解していて、タンジマート(恩恵改革)などの制度改革も行われました。
でも、保守派と改革派の対立が激しく、改革は中途半端に。
財政も苦しくなり、最終的にはヨーロッパからの借金まみれになる始末。
「もう自力では立て直せない」状態に追い込まれてしまいます。
オスマン帝国が「瀕死の病人」と化したのは、強すぎた過去の遺産にすがりすぎて、変化に対応できなかったから。
それでも完全に崩壊するまでは、何十年も粘り続けた――そのしぶとさも、またこの帝国のすごさなんです。