
第18代スルタン《イブラヒム》とは何した人?
─最後は狂気と浪費で失脚した狂王─
イブラヒム1世(Ibrahim I, 1615–1648)
出典:John Young (1755–1825) / Wikimedia Commons Public domain
在位 | 1640年~1648年 |
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出生 | 1615年11月5日 |
死去 | 1648年8月18日(処刑) |
異名 | 狂気のイブラヒム |
親 |
父:アフメト1世 |
兄弟 | ムラト4世、カシム、スレイマン、バヤズィト ほか |
子供 | メフメト4世、スレイマン2世、アフメト2世、ムスタファ2世 ほか |
功績 | スルタンとしての実績は乏しく、後宮政治に溺れ国政が混乱。失政が続き、最終的にイェニチェリの反乱で廃位・処刑された。 |
先代 | ムラト4世 |
次代 | メフメト4世 |
オスマン帝国には、伝説的な名君もいれば、逆に「なぜ即位してしまったのか…」と思われるような人物もいます。暴走する後宮、機能不全の官僚組織、そしてスルタン自身の不安定な精神状態が絡み合って、帝国を内側から揺るがすような時代もあったんです。
その中心にいたのがイブラヒム(1615 - 1648)!
この記事では、「狂王」とも呼ばれたスルタン・イブラヒムの激しすぎる治世と、その背景にあった政治構造、そして最終的に彼がたどった悲劇の結末を、わかりやすくかみ砕いて解説します。
イブラヒムの人生は、はじまりからして不安と混乱に満ちていました。
イブラヒムは、アフメト1世の息子であり、兄ムラト4世の死を受けて1640年にスルタンに即位しました。ただし、即位時点で彼は20年以上にわたって「カフェス」と呼ばれる幽閉生活を送っており、精神的にかなり不安定だったといわれます。
兄が死んだときも、幽閉されすぎたせいで「罠だ!俺を殺すつもりなんだろう!」と錯乱し、しばらく即位を拒否したという逸話も残されています。
トプカプ宮殿内の“鳥籠(カフェス)”
内紛を防ぐために王子(皇子)たちの幽閉施設として使われた隔離区画
出典:Gryffindor / Wikimedia Commons Public domainより
統治能力を欠いたイブラヒムは、やがて宰相たちや母后、そして後宮の女性たちの操り人形となり、政治は完全に混迷状態に。その不満が限界に達した1648年、イェニチェリ(近衛兵)とウラマー(宗教指導層)による宮廷クーデターが勃発。
イブラヒムは廃位され、数日後に処刑されました。享年33歳──オスマン帝国では数少ない「殺されたスルタン」の一人となります。
イブラヒムの性格は、精神不安定な一方で、異様な執着心や快楽主義が目立つ、かなり特異なものだったようです。
イブラヒムには「毛皮フェチ」とも呼ばれる逸話があり、王宮中を毛皮で覆うよう命じたとか、イルカに宝石をつけて海に放ったとか、信じがたい話がいくつも残っています。
また後宮の女性に異常なまでに執着し、ある一人の側女(ハセキ・トゥルハン)に400人分の財産を与えたとも。とにかく、常軌を逸した行動が次第に帝国を混乱させていったのです。
イブラヒムは、政治的な意思決定をほとんど母ケセム・スルタンに委ねていました。彼女は摂政的存在として実際の統治を担っていたものの、息子の奇行には頭を悩ませていたようです。
ケセムは最終的に、息子の廃位と死にも関与したとされ、ここには「母による最も重い決断」という深い悲劇が潜んでいます。
イブラヒム自身の統治には目立った功績はないものの、彼の治世は帝国の制度を大きく揺るがす転換点となりました。
イブラヒムの治世では後宮の女性たちが政治を牛耳るという構図が限界まで進行しました。母ケセムの支配に加え、愛妾たちが官僚の任命や解任にまで口出しするなど、「女の宮廷」と化していたんです。
この反動として、以後の帝国では後宮勢力の抑制が強く意識されるようになっていきます。
イブラヒムの強制退位と処刑は、「スルタンといえども責任を問われる」という前例となりました。以後、無能な皇帝は宗教的・軍事的支持を失えば退位させられるという考え方が定着します。
つまり、イブラヒムは「皇帝の神格化」が崩れた象徴だったわけです。
イブラヒムって、たしかに奇行だらけのスルタンだけど、それって長年の幽閉生活や周囲の政治利用のせいでもあるんですよね。本人だけを責められない、制度そのものの限界を示した存在だったとも言えるのです。