
第21代スルタン《アフメト2世》とは何した人?
─短い治世で戦乱に追われる─
アフメト2世(Ahmed II, 1643–1695)
出典:John Young (1755–1825) / Wikimedia Commons Public domain
在位 | 1691年~1695年 |
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出生 | 1643年8月25日 |
死去 | 1695年2月6日 |
異名 | 病弱のスルタン |
親 |
父:イブラヒム |
兄弟 | メフメト4世、スレイマン2世、ムスタファ2世 ほか |
子供 | 記録なし(子がいたか不明) |
功績 | 短期間の治世ながらファズル・ムスタファ・キョプリュリュの指揮で軍を立て直し、スレイタニの勝利を維持。病弱で政治の主導権は側近に委ねられた。 |
先代 | スレイマン2世 |
次代 | ムスタファ2世 |
オスマン帝国の17世紀末は、ヨーロッパ列強との戦争が相次ぎ、国力の限界が見え始めていた時代。そんな中で皇帝の座に就いたのが、軍務と信仰にまじめに向き合った、いわば「実直な戦時のスルタン」。
その人物こそがアフメト2世(1643 - 1695)!
この記事では、兄スレイマン2世の後を継ぎ、国家の苦境に立ち向かおうとしたアフメト2世の人生と、その治世の中で果たした役割を、わかりやすくかみ砕いて解説します。
アフメト2世の即位は、帝国がまさに“正念場”を迎えていた時期でした。
アフメト2世は、父イブラヒムの息子であり、兄スレイマン2世の死後、1691年に即位しました。この時すでに48歳と高齢で、若いころから宮廷のカフェスに幽閉されていた“遅咲きスルタン”だったんです。
即位と同時に、帝国は神聖同盟戦争(対オーストリア・ポーランド・ヴェネツィア・ロシア)という大規模戦争の真っ最中。和平交渉と軍事の両方をこなさなければならない、非常にタフな局面でした。
在位期間はわずか4年。1695年に病のために死去します。享年52歳。治世は短く、目立った成果は限られていましたが、次の皇帝ムスタファ2世にある程度秩序を引き渡せたという点で、一定の評価を受けています。
アフメト2世は、個人的な野心よりも義務感に基づいて行動する、誠実で堅実なタイプのスルタンでした。
彼の性格を語る上で欠かせないのが宗教への深い傾倒。とくにスーフィズム(イスラム神秘主義)の教えに共鳴しており、皇帝としての自分を「神に仕える者」として位置づけていました。
また、自らの即位を「兄の功績のおかげ」と謙遜したという逸話もあり、控えめで誠実な人物像が伝えられています。
戦争状態が続くなかで、アフメト2世は兵士たちの待遇や士気向上に意識を向けました。補給線の整備や報酬の支払いの遅延を正すよう命じ、軍の信頼を少しでもつなぎとめようと奮闘していたんです。
この姿勢は、軍事力が衰えていくオスマン帝国において、地味ながら重要な働きだったといえるでしょう。
アフメト2世の時代には大勝利こそなかったものの、重要な“持ち直し”が起きていました。
とくに注目すべきは、有能な大宰相アマジャザーデ・ヒュセイン・パシャの登用です。この宰相は、戦時中の行政手腕にすぐれ、和平交渉と戦備の両面で的確な指揮をとることができた人物。
アフメト2世はこうした“適材適所”の人事を通じて、帝国の最低ラインを支える役割を果たしました。
神聖同盟戦争のさなか、領土の一部は奪われつつも、帝国の中核地域(アナトリア・バルカン中部)は維持されました。これは、アフメト2世とその政府が何とか均衡を保っていたからこそ。
彼の治世は「大逆転こそないが、決壊もさせなかった」という防衛型統治として、歴史的には一定の意義を持っています。
アフメト2世って、目立たないけど“この人がいたからギリギリ持ちこたえた”っていうタイプのスルタンなんですよね。英雄ではないけど、まじめで誠実な“戦時の舵取り役”って感じです。