
第34代スルタン《アブデュルハミト2世》とは何した人?
─なぜ憲法を停止し専制政治を敷いたのか─
アブデュルハミト2世(Abdülhamid II, 1842–1918)
出典: Wikimedia Commons Public domain
在位 | 1876年~1909年 |
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出生 | 1842年9月21日 |
死去 | 1918年2月10日 |
異名 | 赤いスルタン(賛否両論の強権者) |
親 |
父:アブデュルメジト1世 |
兄弟 | ムラト5世、メフメト5世(異母弟)ほか |
子供 | メフメト・セリム、アーメト・ニハト ほか多数 |
功績 | 1876年にミドハト憲法を発布し立憲制を導入するが、1878年に停止して絶対主義に転換。諜報網の強化とパン=イスラーム主義を掲げ帝国の結束を図るも、1909年に青年トルコ革命で退位。 |
先代 | ムラト5世 |
次代 | メフメト5世 |
1876年、わずか3か月で退位したムラト5世に代わって、国家の舵取りを任されたのは、知略に富み、冷静沈着、そして疑り深いスルタン。彼は新憲法を発布しながらも、のちに専制体制へと転じ、“赤いスルタン”と恐れられる存在になっていきます。
その人物こそがアブデュルハミト2世(1842 - 1918)!
この記事では、オスマン帝国最後の「実力皇帝」ともいえるアブデュルハミト2世の長い治世と、その中で繰り広げられた改革・統制・策略の数々を、わかりやすくかみ砕いて解説します。
アブデュルハミト2世の人生は、「改革と抑圧」「希望と恐怖」が共存する、まさに“二面性のスルタン”だったといえるでしょう。
ムラト5世の退位を受け、1876年に即位。同年、近代オスマン帝国初となる憲法(カーヌーン=イ・エスアーシー)を公布し、第1次立憲制をスタートさせました。これはミドハト・パシャら改革派の強い主導によるもので、彼自身も表向きは「憲法の守護者」として登場したのです。
ところが1909年、青年トルコ人革命によって退位させられ、晩年はギリシャ領サロニカ(現在のテッサロニキ)に幽閉。その後イスタンブル郊外のベイレルベイ宮殿で余生を送り、1918年に死去。第一次世界大戦末期のことでした。
青年トルコ革命・門前でのデモ(1909年)
アブデュルハミト2世の専制に反発した青年トルコ党が立憲制復活を求めて起こした政変
出典:Charles Roden Buxton / Wikimedia Commons Public domainより
アブデュルハミト2世は、用心深く、観察眼が鋭く、同時に猜疑心が非常に強い人物だったとされています。
彼はほとんどの政務を自分で最終確認し、各省からの報告を読み漁っていたという“仕事人間”。重臣たちにも容易に決定権を渡さず、あらゆる決定に自ら関与する中央集権型の皇帝でした。
また、密偵網(ハフェイエ)と新聞検閲を徹底して整備し、反体制的な言論を封じ込めました。批判的なジャーナリストや知識人は投獄、もしくは国外追放。その統制ぶりから、彼は後に「赤い流血の皇帝」と呼ばれるようになります。
『ル・リール誌』アブデュルハミト2世の風刺画(1897年)
政府に批判的な媒体は即座に発禁したり、アルメニア人弾圧などで多数の死者を出した強権統治を皮肉っている
出典:Jean Veber / Wikimedia Commons Public Domain
アブデュルハミト2世の治世は、矛盾をはらみつつも「帝国の延命」に多大な影響を与えた時代でもありました。
彼は「ハミディイェ」と呼ばれる自身の名を冠した改革政策を展開。帝国各地への学校建設、医療施設の整備、技術学校や職業訓練校の新設など、特に教育面では近代国家としての基盤を築きました。識字率の向上や、文官養成制度の整備は大きな成果といえるでしょう。
彼のもう一つの功績は鉄道政策。とくにヒジャーズ鉄道(ダマスカス~メディナ)は、宗教的・戦略的両面で重要なインフラ事業でした。さらに列強の圧力に対してはバランス外交を駆使し、ロシア・イギリス・ドイツの間を巧みに揺れ動きながら、帝国の独立性を守ろうと奮闘したのです。
ヒジャーズ鉄道の地図
アブデュルハミト2世の命で敷設されたヒジャーズ鉄道は、イスラム世界の統合とメッカ巡礼の便宜、さらに軍事輸送を目的とした大事業であった
出典:User:Attilios, User:Degeefe / GNU Free Documentation License 1.3
アブデュルハミト2世は、ただの独裁者ではなく、時代の限界を理解した上で“使えるものは何でも使う”リアリストのスルタンでした。恐怖と理性を同時に操りながら、帝国の命運をギリギリのところでつないだ──そんな“最後の老獪な統治者”だったのです。