
オスマン帝国にも、大日本帝国のような「御前会議」にあたる制度が存在していました。
それが、スルタン直属の最高会議「ディヴァーン・フマーイユーン(Divan-ı Hümayun)」です。
スルタンの“御前”で、大臣や高官たちが帝国の政策・軍事・司法などを話し合う国家中枢の会議で、まさに“皇帝の前で国家を動かす場”だったんですね。
今回は、そのディヴァーンの仕組みと、参加していたメンバーたちを詳しく見ていきましょう!
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ディヴァーン・フマーイユーンは、スルタンの名のもとで開かれる最高政治会議であり、15世紀〜17世紀を中心に、帝国の方針や政策がここで決定されました。
会議の場所は、イスタンブールのトプカプ宮殿内の謁見の間(クバベ・アルトゥ)」。
スルタン本人は格子窓越しに見守るのみという形式を取り、発言は控えるけど、会議の結果には絶対的な veto 権を持っていたんです。
では、この「オスマン流・御前会議」には誰が座っていたのか?
以下が、定番の主要メンバーです。
いわば会議の司会兼スルタンの右腕。
すべての政策を取りまとめ、最終的にスルタンに上奏する役割を担いました。
実務的には、国家の最高責任者=首相ポジションです。
など、分野ごとの専門大臣が並んで座ります。ヴェズィールは複数人いることも。
法令や布告などにスルタンの印章(トゥグラ)を押す文書行政のエキスパート。
条約や外交文書を起草する、現代でいう法務官+外務官的ポジションです。
特に外交を担当し、ヨーロッパとの交渉や条約締結で活躍。
フランス語などの欧州言語にも通じていた、帝国の“国際部門”のプロ。
スルタン直属の精鋭部隊であるイェニチェリ(常備歩兵軍)の代表者。
軍事会議の場では発言力を持っていましたが、政治面ではやや補佐的役割。
17世紀に入ると、スルタンが公の場に姿を見せることが減っていき、ディヴァーンも徐々に儀式的な場となっていきます。
徐々に会議の実務は宮殿外の宰相府で行うようになり、スルタンの直接監督も弱まっていきます。
それでもスルタンに報告する体制は維持されていて、形式としての“御前会議”は続いていました。
オスマン帝国の「御前会議」=ディヴァーン・フマーイユーンは、スルタンの名のもとに大臣たちが集まり、国家の方針を決定する重要な場でした。
そのメンバーには大宰相・各省の大臣・宗教法官・文書官・軍代表など、国の中枢を担う精鋭たちが顔を揃えていました。
日本の「御前会議」と似た構造を持ちながらも、イスラーム法と軍事官僚制がセットで動いていたのが、オスマン独自のカラーだったんですね。