オスマン政治史《御前会議》とは─どんなメンバー構成だった?

オスマン帝国の御前会議とは─どんなメンバー構成だった?

このページではオスマン政治史における《御前会議》(ディヴァーン)と、そのメンバー構成についてお話しています。大宰相をはじめとする高官たちが集まり政策決定を行ったこの制度の運営方法や、スルタンとの関係性などを通して、オスマン帝国の政治運営の仕組みへの理解を深める助けになれば幸いです。

オスマン帝国と御前会議─集められたメンバーとは?

オスマン帝国式「御前会議」が開かれた謁見の間
トプカプ宮殿「ディヴァーン・フマーイユーン(Divan-ı Hümayun)」でフランス大使を接待する大宰相を描いた18世紀絵画

出典:ジャン=バティスト・ヴァンムール作 / Wikimedia Commons Public domainより

 

オスマン帝国にも、大日本帝国のような「御前会議」にあたる制度が存在していました。
それが、スルタン直属の最高会議「ディヴァーン・フマーイユーン(Divan-ı Hümayun)」です。

 

「御前評議会」や「帝国評議会」とも訳されます。

 

スルタンの“御前”で、大臣や高官たちが帝国の政策・軍事・司法などを話し合う国家中枢の会議で、まさに“皇帝の前で国家を動かす場”だったんですね。
今回は、そのディヴァーンの仕組みと、参加していたメンバーたちを詳しく見ていきましょう!

 

 

 

ディヴァーン・フマーイユーンって何?

ディヴァーン・フマーイユーンは、スルタンの名のもとで開かれる最高政治会議であり、15世紀〜17世紀を中心に、帝国の方針や政策がここで決定されました。

 

会議は“御前”で行われた

会議の場所は、イスタンブールのトプカプ宮殿内の謁見の間(クバベ・アルトゥ)」。 スルタン本人は格子窓越しに見守るのみという形式を取り、発言は控えるけど、会議の結果には絶対的な veto 権を持っていたんです。

 

ディヴァーンの主要メンバー構成

では、この「オスマン流・御前会議」には誰が座っていたのか? 以下が、定番の主要メンバーです。

 

① 大宰相(サドラザム)

いわば会議の司会兼スルタンの右腕。 すべての政策を取りまとめ、最終的にスルタンに上奏する役割を担いました。 実務的には、国家の最高責任者=首相ポジションです。

 

② 各省の大臣たち(ヴェズィール)

  • 軍事担当:セラースクル(後の参謀総長的役職)
  • 財務担当:デフテルダール(財務長官)
  • 宗教法担当:カズァスケル(司法・教育・宗教のトップ法官)

 

など、分野ごとの専門大臣が並んで座ります。ヴェズィールは複数人いることも。

 

③ ニーシャンジー(国璽官)

法令や布告などにスルタンの印章(トゥグラ)を押す文書行政のエキスパート
条約や外交文書を起草する、現代でいう法務官+外務官的ポジションです。

 

④ 宮廷書記官(リース・エフェンディ)

特に外交を担当し、ヨーロッパとの交渉や条約締結で活躍。
フランス語などの欧州言語にも通じていた、帝国の“国際部門”のプロ

 

⑤ カプクル軍団代表(イェニチェリ・アーガー)

スルタン直属の精鋭部隊であるイェニチェリ(常備歩兵軍)の代表者。
軍事会議の場では発言力を持っていましたが、政治面ではやや補佐的役割。

 

 

17世紀以降、ディヴァーンの役割はどう変わった?

17世紀に入ると、スルタンが公の場に姿を見せることが減っていき、ディヴァーンも徐々に儀式的な場となっていきます。

 

実務は大宰相官邸(バーブル・アリー)で行うように

徐々に会議の実務は宮殿外の宰相府で行うようになり、スルタンの直接監督も弱まっていきます。
それでもスルタンに報告する体制は維持されていて、形式としての“御前会議”は続いていました。

 

オスマン帝国の「御前会議」=ディヴァーン・フマーイユーンは、スルタンの名のもとに大臣たちが集まり、国家の方針を決定する重要な場でした。
そのメンバーには大宰相・各省の大臣・宗教法官・文書官・軍代表など、国の中枢を担う精鋭たちが顔を揃えていました。
日本の「御前会議」と似た構造を持ちながらも、イスラーム法と軍事官僚制がセットで動いていたのが、オスマン独自のカラーだったんですね。