
オスマン帝国って、日本のどの時代と同じころに存在していたと思いますか?
答えを先に言ってしまうと――なんと鎌倉時代の終わりごろから、大正時代まで!
つまり、日本の中世から近代にかけての全部の時代と、オスマン帝国はほぼかぶってるんです。
ここでは、オスマン帝国と日本の時代を照らし合わせながら、「世界の同時進行感」を感じてみましょう。
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オスマン帝国が誕生したのは1299年ごろとされています。
この頃の日本はというと――ちょうど鎌倉幕府が末期にさしかかっていたころなんです。
1274年と1281年には元寇(蒙古襲来)がありましたよね?
あれが終わってちょっと経った頃、日本では御家人の不満が高まり、幕府がグラグラになっていた時期。
そのころ、はるか西方のアナトリア(今のトルコ西部)で、オスマン1世がひっそりと小さなトルコ系国家を作っていたわけです。
日本が室町時代から戦国時代に入っていくころ、オスマン帝国はどんどん勢力を拡大していきます。
日本では足利義満が「金閣寺」を建てていたころ、オスマン帝国ではメフメト2世がコンスタンティノープル(ビザンツ帝国)を陥落させていました(1453年)。
つまり、「金閣寺が建つ=東アジアの優雅な文化の時代」
「ビザンツ帝国が終わる=ヨーロッパ中世の終焉」
この二つの大きな歴史の転換点が、ほぼ同時期に起きていたんです。
日本では織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった戦国時代のヒーローが活躍していたころ、オスマン帝国ではスレイマン1世(壮麗王)が登場して最大版図を築いていました。
つまり、日本が“群雄割拠”していた時代に、オスマンは世界帝国の頂点にいたんですね。
1603年、日本では江戸幕府が始まり、世界に対してどんどん閉ざされた国家になっていきます。
一方オスマン帝国はというと、まだまだ世界の政治・宗教・軍事の中心のひとつでした。
この時代のオスマン帝国は、すでに最大領土の維持で手一杯になっていて、 対外拡張よりも多民族国家としてどう共存させるかに悩み始めていました。
それでも、ヨーロッパ諸国との戦争(例:神聖ローマ帝国、ロシア)などは続いていて、“老練な帝国”として生き残っていたんです。
19世紀後半、日本が明治維新で近代国家に生まれ変わるのに対して、オスマン帝国は近代化に苦しみながら徐々に衰退していきます。
ヨーロッパではこの頃、オスマン帝国のことを「ヨーロッパの瀕死の病人」と呼ぶようになります。
国内の民族運動は活発になるし、経済も軍事も他国に頼らざるを得ない状態。
この時代、日本は列強に仲間入りしつつあるのに、オスマンは帝国の終わりが見え始めていたんですね。
大正11年(1922年)、スルタン制が廃止されてオスマン帝国は終焉を迎えます。
このころの日本はというと、大正デモクラシーの真っ只中。
新聞、選挙、政党…日本が民主的な国家へと変わろうとしていたタイミングだったんです。
オスマン帝国と日本は、同じ時代をまったく違う場所・違うスタイルで生きていた存在なんです。
日本が武士や将軍、天皇で国を運営していた間、オスマンはスルタンとイスラム法で帝国を回していた。
こうして世界史を“同時進行”で見ると、ぐっと面白くなりますよね。