オスマン帝国と歩んだエルサレム400年の歴史

「エルサレム」――それはユダヤ教、キリスト教、イスラム教という三大一神教の聖地として、古代から現代にいたるまで特別な意味を持ち続けてきた都市。
そんな宗教的にも政治的にもデリケートすぎるこの都市を、約400年にわたって治め続けたのがオスマン帝国だったんです。
しかもその統治は、ただの軍事支配ではなく、信仰の共存・インフラ整備・聖地保護までを含む、かなりバランス感覚に富んだものでした。
この記事では、オスマン帝国がエルサレムをどう見て、どう関わっていたのか――その知られざる400年の歩みを見ていきましょう。

 

 

オスマン帝国とエルサレムの出会いは16世紀

エルサレムがオスマンの支配下に入ったのは、スルタン・セリム1世の時代。
このころオスマン帝国は急成長中で、アラブ世界の中心地を次々に手中に収めていました。

 

1517年、マムルーク朝を破り聖地を掌握

1517年、オスマン帝国はエジプトのマムルーク朝を倒し、パレスチナ・シリア・エジプトを征服
このときエルサレムもオスマンの支配下に入り、以後1917年まで約400年間、スルタンの名のもとに統治されることになります。

 

聖地支配=イスラム世界の“正統性アピール”

メッカやメディナと同様、エルサレムを治めることは宗教的リーダーシップの象徴でもありました。
ムスリムにとってエルサレムは、ムハンマドが昇天したとされる「岩のドーム」がある聖地。スルタンがこれを保護することで、カリフとしての威厳も高まったわけです。

 

宗教の“重なり合い”とオスマン的な調整力

エルサレムには、ユダヤ教の嘆きの壁、キリスト教の聖墳墓教会、イスラム教の岩のドームなど、聖地がギュッと集まってるという超デリケートな都市構造があります。
オスマン帝国は、これらをどうバランスよく扱っていたのでしょうか?

 

信仰ごとの“棲み分け”を保障する

オスマン統治下のエルサレムでは、ミッレト制度により、宗教ごとの共同体(ミッレト)が自治を行い、それぞれの宗教施設や儀式が原則として尊重されていました。
「お互いの聖地は侵さない」「巡礼の自由を守る」など、宗教間のトラブルを抑えるためのルールが整備されていたんです。

 

聖墳墓教会の“カギ”は今もムスリムが管理

特に象徴的なのが、キリスト教の聖墳墓教会。オスマン時代に、「各宗派が争わないように」との理由で、ムスリムの家系にカギの管理を委ねたという慣習が生まれました。
実はこの慣習、今も続いていて、代々その家系が教会の扉を開け閉めしているんです。

 

スレイマン大帝が残した都市整備と文化保護

エルサレムの“今の街並み”を形づくった大きなきっかけは、スルタン・スレイマン1世による整備事業でした。
彼はエルサレムを「宗教都市としてふさわしい姿」にしようと、本気で取り組んだんです。

 

現在の旧市街の“城壁”はスレイマンが築いた

エルサレムのランドマークとも言える城壁(旧市街の外壁)は、1530年代にスレイマンの命で再建されたもの。
都市の防衛だけでなく、「ここが聖なる都である」と象徴的に示すための建築でもありました。

 

岩のドームやモスクの修復にも尽力

イスラムの聖地「ハラム・アッシャリーフ(神殿の丘)」にある岩のドームアル=アクサー・モスクも、オスマン時代に大規模な修復・装飾が施されています。
このとき使われたイズニック・タイルが、今でも建物のあちこちに残っていて、オスマン美術の結晶とも言えるんです。

 

400年の“宗教モザイク”をどう保っていたのか?

エルサレムは、言ってみれば宗教と宗教が隣り合わせで生きる空間
そこで400年も比較的安定した支配が続いたのは、奇跡に近いとも言えます。

 

「介入しすぎない」ゆるやかな支配

オスマン帝国は、宗教指導者や現地有力者にかなりの裁量を委ねることで、宗教ごとの摩擦を抑えていました。
イスラム国家でありながら、ユダヤ人の嘆きの壁への巡礼も黙認するなど、バランス感覚のある運営がなされていたんです。

 

でも19世紀以降は“火種”も増えていく

帝国の力が衰えると、ヨーロッパ列強が宗教対立を利用してエルサレムへの影響力を強めようとする動きが出てきます。
聖地の“管理権”をめぐる争いが激化し、19世紀末にはエルサレムが国際問題の焦点へと変わっていきました。

 

エルサレムを400年も治めていたオスマン帝国――その姿勢は、「宗教の混ざり合いをどう扱うか」というテーマに対する歴史的な“ひとつの答え”だったのかもしれません。
強く支配しすぎず、でも放置せず。信仰と信仰のあいだに、慎重に橋をかけるような統治をしていたのが、オスマン帝国という存在だったんですね。