
16世紀、ヨーロッパとイスラーム世界の間で最もアツい戦場だったのが地中海。
そのど真ん中で火花を散らしていたのが、オスマン帝国とスペイン帝国なんです。
この2国、まさに“海の覇権”をかけて地中海で何十年もガチバトルを繰り広げました。
今回は、そんなオスマン×スペインのライバル関係を、海戦と外交を軸にスッキリ整理していきます!
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15世紀末から16世紀にかけて、地中海の覇権をめぐってイスラーム勢力とキリスト教国の争いが激化。
オスマン帝国とスペインは、その代表格としてバチバチにぶつかるようになります。
スペインが1492年にグラナダ王国を滅ぼしてレコンキスタを完了すると、今度は「イスラーム勢力を地中海からも追い出せ!」という流れに。
対するオスマン帝国は、北アフリカ沿岸に拠点を築きながら逆に進出していきました。
この時期、オスマン海軍の象徴といえばバルバロス・ハイレッディン。
元は海賊だった彼は、オスマンの提督となり、スペイン・ジェノヴァ艦隊と地中海で何度も激戦を繰り広げます。
スペインにとってはまさに“国際的な海賊退治”みたいな戦いだったんですね。
オスマンとスペインの争いは、やがて大規模な海戦と領土争いに発展していきます。
16世紀中頃には、チュニジアを巡ってスペインとオスマンが直接軍事介入。
スペインは一時チュニスを奪取するも、オスマン側が奪還。
結果的に、モロッコ〜トリポリあたりが両勢力の“緩衝地帯”になります。
この海戦は、スペインを中心とするキリスト教連合艦隊と、オスマン艦隊との大決戦。
スペイン側の指揮はドン・フアン・デ・アウストリア、オスマン側はアリ・パシャ。
戦いはキリスト教側の大勝利に終わり、オスマン帝国が地中海で初めての大敗を喫します。
とはいえ、翌年にはオスマンが艦隊をほぼ再建しているので、「一発で決着」はつかなかったんですよね。
レパント以降、スペインは徐々に衰退し、オスマンも東方や内政に集中しはじめたことで、大規模な衝突は減少します。
オランダ独立戦争や英仏との戦争でスペインが消耗していく一方、オスマンは地中海東部の制海権をある程度維持。
ベネチアなど他の小国との争いのほうが多くなっていきます。
17〜18世紀になると、スペインとオスマンの直接対立よりも、貿易・通商ルートの確保が中心に。
地中海は「戦場」から「マーケット」へと役割が変わっていくんですね。
オスマン帝国とスペインの関係は、まさに“地中海の覇権”をかけた宿命のライバル関係でした。
戦争・外交・貿易…すべてが入り混じる複雑な関係で、イスラームとカトリックの対立構造の象徴とも言える存在。
でもその対立は、やがて変化しながら、新しい秩序と共存の形へと進んでいったんです。