
ギリシャ独立戦争初年度の出来事
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ギリシャといえば、今ではヨーロッパの観光地としておなじみですが、かつてはオスマン帝国の支配下にあったって知っていましたか?そんなギリシャが、19世紀にいよいよ独立へと動き出します。しかもその過程では、列強諸国が大きく関わり、最後には壮絶な“国際戦争”の様相を呈することに──。この記事では、ギリシャ独立戦争(1821~1829)の背景から戦いの流れ、そして講和条約によってオスマン帝国が何を失ったのかを中心に、わかりやすくかみ砕いて解説していきます。
まずは戦争がなぜ起きたのか、その背景を押さえておきましょう。
ギリシャは15世紀のメフメト2世による征服以降、オスマン帝国の一部として長らく組み込まれていました。でも19世紀に入ると、ヨーロッパ各地でナショナリズムが盛り上がる中、ギリシャ人たちも「古代ギリシャの誇りを取り戻そう」と独立を志すようになります。
1821年、ギリシャ人の秘密結社フィリキ・エテリアが反乱を開始。最初はオスマン側も「すぐ鎮圧できる」と思っていたものの、意外にもこの蜂起は大規模な反乱に発展し、南部のペロポネソス半島などでは実質的な支配権が奪われてしまいました。
ギリシャの独立は、ただの内乱では終わらなくなります。
1827年、イギリス・フランス・ロシアがギリシャ独立を支持し、「オスマンとの停戦を要求」する共同宣言を出します。ところがオスマン側がこれを拒否したため、列強は軍事介入に踏み切ることになります。
同年10月、列強三国の連合艦隊は、ギリシャ沖ナヴァリノ湾でオスマン=エジプト連合艦隊と衝突。戦闘はわずか数時間でオスマン側が壊滅的打撃を受けるという大敗に──。これが決定打となって、オスマンは外交的にも軍事的にも不利な立場に追い込まれていきます。
では、戦争の終結とともに締結された条約では、いったい何が決まったのでしょうか?
1829年、オスマン帝国とロシア帝国とのあいだで結ばれたアドリアノープル条約(エディルネ条約)は、この戦争の実質的な講和文書の一つ。オスマンはロシアに黒海沿岸の権益を譲り渡し、ギリシャの独立承認に同意するという形で、完全に譲歩せざるを得なくなりました。
1830年、列強3国によるロンドン条約によって、ギリシャは正式に独立国家として認められます。つまり、ここでオスマン帝国は数世紀にわたるバルカン支配の一角を失ったことになるのです。
ギリシャ独立によってオスマンが失ったのは、物理的な土地だけではありません。
ナヴァリノの敗戦により、海軍力の信頼性は大きく損なわれます。以後、オスマン帝国は地中海の制海権を喪失し、列強の影響下に置かれる状態が加速しました。
「かつての支配民が独立できる」という前例を作ってしまったことは、帝国全体の求心力を著しく低下させました。これをきっかけに、セルビア・ルーマニア・ブルガリアといった他のバルカン諸国も独立運動を始めることになるのです。
独立後の両者の関係と、それぞれの歩みも押さえておきましょう。
ギリシャは列強の後押しで、1832年にバイエルン出身のオソン1世を王に迎えて「ギリシャ王国」として誕生します。ただし完全な独立国家というより、列強の保護国的性格が強い体制でした。
オスマン帝国側は、失地回復のためにタンジマート改革を推進し、行政制度や軍事力の近代化を急ぎます。けれども、それでもバルカンの分離独立の流れは止められず、帝国は「多民族帝国の綻び」をどうにもできなくなっていくのです。
このように、ギリシャ独立戦争は、オスマン帝国の“ゆるやかな崩壊”の始まりを告げる決定的な転機だったのです。