
オスマン帝国とロシア帝国――この2つの大国は、なんと17世紀から19世紀にかけて12回以上も戦争しています。
ここまでくると「もう仲悪すぎじゃん…」って思いますよね。でも実はこれ、ただの相性の悪さじゃなくて、地理・宗教・野望が全部重なった“避けられないライバル関係”だったんです。
以下で、なぜオスマン帝国が何度もロシアと戦争を繰り返したのか、その理由をくわしく解説していきます!
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まず一番大きな理由が地理的な衝突です。
両国の間には黒海・カフカス・バルカン半島といった、誰もが欲しがる“お宝エリア”がゴロゴロあったんですね。
ロシアにとって、黒海は南へ進出するための出口。特に温暖な港が少ないロシアにとっては、不凍港がある黒海は超重要でした。
でもその黒海は長年オスマン帝国の“内海”状態。
だからロシアがそこを通ろうとするたびに、オスマンとぶつかる――という構図になったんです。
バルカン半島は、オスマン帝国が14世紀から支配していた大事な地域。でも19世紀には、そこに住んでいる正教徒スラヴ系の人々が「ロシアに助けてほしい」と頼り始めます。
ロシアはこれを口実に「正教徒の守り手」としてオスマン領に介入するようになるんですね。
ただの土地争いじゃなく、宗教やアイデンティティの衝突も大きかったんです。
オスマン帝国はスルタン=カリフとして、イスラーム世界の代表を名乗っていました。
対するロシアは、1453年のビザンツ帝国滅亡後に「自分たちこそ東方正教の中心だ!」と考えるようになり、“第三のローマ”を名乗るようになります。
つまり、両者はそれぞれの宗教圏のチャンピオンとして張り合っていたんです。
意外かもしれませんが、ロシアとオスマンが争ったきっかけのひとつに、聖地エルサレムのキリスト教聖堂の管理権という問題もあります。
フランスとロシアがそれぞれ「自分の宗派が管理すべき」と主張し、オスマンを挟んで対立。これがクリミア戦争(1853〜1856年)の引き金にもなったんです。
19世紀に入ると、オスマン帝国は領土も財政もボロボロになってきます。
そんな中、ロシアは「いつ崩れるかわからないオスマン」を狙って、チャンスを見計らっていたんです。
1850年代、ロシアの皇帝ニコライ1世がイギリスに対して「オスマン帝国はもう瀕死の病人だ」って言い放ったのは有名な話。
この頃から、誰がオスマン帝国の遺産を手に入れるかという「東方問題」が、列強間の大きなテーマになります。
ロシアは「正教徒を保護する」という大義名分でオスマン領に何度も干渉してきました。
でもそれは実際には、領土を奪うための政治的な道具として使っていた部分もあったんですね。
オスマン帝国とロシアが戦争を繰り返した理由は、黒海やバルカンの地政学的価値、宗教的な正統性の対立、そしてオスマンの弱体化に乗じたロシアの野心――この3つがガッチリ重なっていたからです。
もはやこれは“避けようのないライバル関係”。オスマンにとってロシアは、最後まで手ごわい「永遠の宿敵」だったんですね。