
第2代スルタン《オルハン》とは何した人?
─実質的な初代皇帝─
オルハン(Orhan, 1281頃–1362)
出典: Paolo Veronese (1528–1588) / Wikimedia Commons Public domain
在位 | 1324年~1362年 |
---|---|
出生 | 1281年頃 |
死去 | 1362年 |
異名 | 初の「スルタン」と称された人物(史料により) |
親 |
父:オスマン1世 |
兄弟 | アラエッディンら |
子供 | スレイマン・パシャ、ムラト1世 ほか |
功績 | 初の貨幣発行、常備軍(イェヤ)創設、ビザンツからニカイア(イズニク)・ニコメディア(イズミット)を奪取し帝国の制度化を進めた。 |
先代 | オスマン1世 |
次代 | ムラト1世 |
オスマン帝国って、最初からあの巨大な版図を持っていたわけじゃないんです。むしろ、スタートはほんの小さな部族政権。そんな“芽”だった帝国を、ぐっと“幹”へと成長させたのが第2代皇帝・オルハン(在位1326-1362)なんです。
父であるオスマン1世の遺志を継ぎつつ、オルハンは大胆に制度を整え、周辺諸国との戦いや連携を通じて本格的な国家形成に乗り出しました。今回は、そんな彼の人生、性格、そして残した功績を、わかりやすくかみ砕いて解説します。
父から受け継いだ小国を、帝国のかたちへと育てた男。その軌跡をたどります。
1326年、父オスマン1世が亡くなる直前に、オルハンはついにブルサの攻略に成功。これにより、オスマン政権はビザンツ帝国との戦いに一つの区切りをつけると同時に、初めて本格的な都市を得ることになります。
そしてブルサは、オスマン帝国初の首都に!ここから国家としての機構づくりが加速していきます。つまり、オルハンの時代は“建国”というより「国家化」の時代だったとも言えるでしょう。
オルハンは戦場でも活躍しましたが、老境に入ってからはだんだんと実務を息子のムラト1世に任せるようになります。そして1362年頃、静かにその生涯を終えたと伝えられています。
戦死でも暗殺でもなく、自然死とされるあたり、当時としては非常に安定した晩年だったといえそうです。
オルハンの人物像は、戦士というより“築く者”。冷静で実務的な皇帝だったことが見えてきます。
伝承などを見るかぎり、オルハンは父ほどのカリスマ性はなかったと言われています。でもその代わり、めちゃくちゃ堅実で実務能力が高かった。たとえば、都市を奪ったあとには必ずモスクや学校、病院を建て、町の再建を行いました。
戦って終わりじゃない、その後の治世も見据えるというスタンスが、のちのオスマン皇帝たちに受け継がれていくわけです。
おもしろいのが、オルハンがビザンツ帝国とただ戦っていたわけではなく、時には政略結婚や軍事援助も行っていたという点。たとえば、皇女テオドラと結婚し、皇位争いに巻き込まれたビザンツ皇帝ヨハネス6世に軍を送ったこともあります。
敵だった相手とも、必要なら協力する。オルハンはけっこうフレキシブルな政治家だったんですね。
では、オルハンが実際にどんな成果を残したのか?その中でもとくに大きな2点を紹介します。
オルハンは、父オスマンが率いていた「部族軍」では足りないと見抜いていました。そこで新たに常備軍(ヤヤ軍)を設立。また、国家運営に欠かせない文官(官僚)制度もこの時代に整備され始めます。
つまり彼の治世は、単なる“戦争の連続”ではなく、国家の骨組みを構築していく段階だったわけです。
オルハンの時代、オスマン軍はついにアジアからバルカン半島へと進出します。特に1354年のガリポリ攻略は、歴史的に見ても超重要!ビザンツ帝国が内紛で揺れる隙をついて、オスマン軍がヨーロッパ側に足がかりを築いた瞬間でした。
これが後の大規模なバルカン遠征の土台となり、オスマン帝国が“アジアとヨーロッパにまたがる帝国”として成長していく第一歩になるのです。
オルハンって、ちょっと地味に見えるけど、その地味さこそがすごい。帝国の基礎をがっちり固めた「築く皇帝」だったわけです。父が“火を灯した人”なら、オルハンはそれを“燃やし続けた人”だったと言えるでしょう!