
第27代スルタン《アブデュルハミト1世》とは何した人?
─露土戦争と不平等条約に苦しむ─
アブデュルハミト1世(Abdülhamid I, 1725–1789)
出典:John Young (1755–1825) / Wikimedia Commons Public domain
在位 | 1774年~1789年 |
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出生 | 1725年3月20日 |
死去 | 1789年4月7日 |
異名 | 苦悩のスルタン |
親 |
父:アフメト3世 |
兄弟 | ムスタファ3世 ほか |
子供 | セリム3世、ムスタファ4世、アリー、フサイン ほか |
功績 | キュチュク・カイナルジ条約でロシアに不利な講和を結び、帝国の弱体化が露呈。宰相の登用と軍制改革を進めつつも、戦乱の中で困難な統治を強いられた。 |
先代 | ムスタファ3世 |
次代 | セリム3世 |
18世紀後半のオスマン帝国──ロシアとの戦争で連敗を重ね、財政もボロボロ、軍も士気が低下…そんな絶望的な状況の中で皇帝の座に就いたのが、決して派手ではないけれど、誠実に帝国の立て直しを目指した“苦悩のスルタン”。
その人物こそがアブデュルハミト1世(1725 - 1789)!
この記事では、敗戦と条約の屈辱に耐えながら、改革と信仰を重んじたアブデュルハミト1世の人物像と、その治世の実際をわかりやすくかみ砕いて解説します。
アブデュルハミト1世の人生は、まさに「重圧に耐えながら希望を探した日々」といってもいいかもしれません。
彼はアフメト3世の息子で、兄ムスタファ3世の死を受けて1774年に即位。このとき帝国は、ロシアとの戦争で大敗し、直後にキュチュク・カイナルジャ条約を結んだばかりでした。
その内容はあまりに屈辱的で、黒海沿岸のロシア支配、クリミアの独立承認など、オスマン帝国の威信は地に落ちていました。そんな状況で、アブデュルハミト1世は“後始末”を引き受ける形で皇帝に就いたのです。
彼は在位中ずっと、ロシアやオーストリアとの軍事的緊張に悩まされ続け、ついに1787年には再び露土戦争が勃発。開戦から間もない1789年、心労がたたって脳卒中で死去。享年63歳。まさに戦争に始まり、戦争に終わるスルタン人生でした。
アブデュルハミト1世は、派手な行動よりも、信念と忍耐で国を支えようとした人物でした。
彼は非常に信仰心が篤く、ウラマー(宗教指導層)との関係を大切にしたスルタン。自身を「神の僕」として位置づけ、奢ることなく王の務めに取り組んだとされています。
また、一般市民にも慎ましい生活ぶりが評判で、「質素で親しみやすい皇帝」として好印象を持たれていたのも特徴です。
逸話として知られるのが、孤児や遺児の保護に力を入れた点。自らの宮殿内に孤児院を設け、戦争で親を失った子どもたちの教育や生活支援を行ったと伝えられています。
こうした福祉的な発想は当時としてはかなり先進的で、スルタンの人間味を感じさせる部分ですね。
戦争に翻弄された治世ではありましたが、その中でもアブデュルハミト1世は静かに、しかし確実に帝国再建の芽を育てていました。
彼のもっとも重要な功績の一つが、西洋式の陸軍訓練体制の整備。すでに限界が見えていたイェニチェリ軍に代わる新戦力として、外国人教官を招き、砲兵訓練学校(フンベール・スクール)を設立しました。
これは後のセリム3世の「ニザーム・ジェディード(新秩序軍)」へとつながっていく、軍近代化の先駆けともいえる動きです。
また彼は、軍費の安定調達のための徴税制度を見直し、宗教学校と実学(科学・数学など)との融合を模索する新たな教育構想も打ち出していました。
それらはまだ“芽”の段階で、成果として結実したわけではありませんが、次代の改革派たちが頼りにする重要な下地を築いたといえるでしょう。
アブデュルハミト1世って、地味だけど誠実で、じわじわ改革を進めた“陰の立て直し屋”って感じですね。戦争の渦中でもあきらめず、未来のために種をまいたスルタンだったのです。