オスマン帝国の台頭とルネサンス文化の終焉←これって関係あるの?

「オスマン帝国の台頭」と「ルネサンス文化の終焉」って関係あるの?」と聞かれると、直接的に「イエス!」と答えるのはちょっと早計かもしれません。
でも、実はこのふたつの歴史の流れ、時間的にも地理的にも絶妙にかぶってるし、お互いに間接的な影響を与えていた可能性は十分あるんです。
この記事では、その関係をわかりやすくひもといてみましょう。

 

 

まず、ルネサンスとオスマン帝国の時代ってかぶってるの?

意外と見落としがちなんですが、ルネサンスのピークとオスマン帝国の台頭ってほぼ同時期なんです。

  • ルネサンスはだいたい14世紀半ば〜16世紀末ごろまで。
  • オスマン帝国は1299年建国、1453年にビザンツ帝国を滅ぼして本格的な大国に

つまり、オスマンが勢いを増してヨーロッパに迫っていった時代と、イタリアを中心に文化が花開いたルネサンスの時代はがっつり重なっていたんですね。

 

文化が栄える一方で、外からの圧力も強まっていた

特に15〜16世紀は、ルネサンス最盛期(ミケランジェロやダ・ヴィンチの時代)と、オスマン帝国の黄金時代(スレイマン大帝)がぶつかっていた時期。
イタリアや神聖ローマ帝国など、ルネサンス文化の中心地が、オスマンの軍事的圧力を常に意識していたというのは大事なポイントです。

 

オスマン帝国の存在が“ルネサンス以後”を加速させた?

オスマン帝国の台頭がルネサンス文化そのものを“終わらせた”わけではないですが、ヨーロッパの文化や価値観の転換を後押ししたという側面はあります。

 

地中海の時代が終わり、大西洋の時代へ

オスマン帝国は地中海東部を支配し、東方貿易のルートを抑えてしまったんです。
その結果、ヨーロッパは「東へ行く別ルートを探さなきゃ!」と考えて、大航海時代(コロンブス、ヴァスコ・ダ・ガマなど)がスタート。
こうして文化の重心がイタリアからスペイン・ポルトガル・イギリスへと移動していくんです。

 

宗教改革や近代国家の形成ともつながっていく

16世紀以降、オスマン帝国の勢力拡大と並行して、ヨーロッパ内部では宗教改革(ルターやカルヴァン)が進行し、ルネサンスの理想主義的な人文主義が徐々に後退していきます。
軍事・外交の現実が重くのしかかるなか、もっと現実的で制度的な思考=近代国家の芽が育っていったとも言えるでしょう。

 

イタリアではオスマンの影響がじわじわと

文化的に最も打撃を受けたのは、実はルネサンスの中心だったイタリアかもしれません。
オスマン帝国はヴェネツィアやジェノヴァといった海洋都市国家と直接的に対立し、商業や造船などでも影響を及ぼしました。

 

レパントの海戦(1571年)も象徴的

この戦いでは、カトリック勢力(スペイン・ヴェネツィア連合)がオスマン海軍を破りますが、オスマンの存在感は依然強く、地中海の緊張は続くことに。
そのせいで、イタリアの都市国家の力はじわじわと衰えていき、ルネサンス文化を支える経済的な土台も弱くなっていったんですね。

 

じゃあ、「終焉」はオスマンのせいなの?

ここは誤解のないようにしたいところですが、ルネサンス文化の終焉は複合的な要因で起こったもので、オスマン帝国だけが原因ではありません。
でも、地中海の勢力地図が塗り替わったことや、文化と経済の重心が動いたという意味では、間接的な“加速剤”にはなったと言えるかもしれません。

 

オスマン帝国の台頭とルネサンス文化の終焉――このふたつには直接的な因果関係はないものの、ヨーロッパの文化地図や価値観の変化に影響を与えたのは間違いありません。
東方との関係が変わったことで、ヨーロッパは大航海・宗教改革・近代国家へと舵を切り、“ルネサンス以後”の世界へと進んでいったのです。