
14世紀の末、オスマン帝国が「さあ、これからどんどん広がっていくぞ!」って勢いに乗っていたとき、思わぬ相手とぶつかってしまいます。その相手こそ、中央アジアから現れた超ド級のライバル、ティムール朝。そして両者が正面から激突したのが1402年のアンカラの戦いなんです。
オスマンが勢いバツグンだったにもかかわらず、この戦いではまさかの大敗。その理由、くわしく見ていきましょう!
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この戦いは、オスマン帝国とティムール朝という2つの大国が、現在のトルコ中部にあるアンカラの近くでぶつかった歴史的な一戦です。
オスマン帝国側のリーダーはバヤズィト1世、対するティムール朝のトップは、あの有名なティムール(タメルラン)。どちらも超強気で「自分が最強だ!」って思ってた時期だったので、ぶつからずにはいられなかったわけですね。
最初はケンカするつもりなかったっぽいんですが、お互いの支配圏が近づいてくると、じわじわと火花が散り始めます。
特に東アナトリアの小国(ベイリク)をめぐって、「どっちが面倒みるの?」って感じのやり取りが続き、最終的に「もう戦って決めようぜ」って流れに。
バヤズィト1世は、バルカン半島から戻ってくる途中でティムール軍に遭遇します。
この時すでにオスマン側はかなりの遠征疲れで、兵士たちも万全じゃありませんでした。
しかも、戦場となったアンカラはティムール側にとって地の利がある場所。準備も兵の配置も、相手の方が完全に上手だったんです。
一見すると兵力もあったし、バヤズィト1世は名将として知られていたんですが、それでも負けちゃった。その理由は、いくつかの要素がガッチリ重なってしまったからなんです。
オスマン軍の中には、かつて征服したばかりの地方から連れてこられた協力部隊もいたんですが、なんとこの部隊、戦いの最中にティムール側に寝返っちゃうんです。
「うそでしょ…」って言いたくなるような裏切りですが、当時のオスマン帝国は急拡大中だったので、まだ忠誠心が育ちきってなかった地域も多かったんですね。
ティムールはただの力押しの人じゃなくて、戦術にものすごく長けた軍司令官でした。
このアンカラの戦いでも、騎兵の機動力をフル活用してオスマン軍を分断したり、包囲したりと、まるで将棋みたいな戦い方でジワジワと追い詰めていったんです。
実はこのアンカラの戦い、単なる一戦負けただけじゃなくて、オスマン帝国が一度バラバラになるきっかけになっちゃうんです。
バヤズィト1世は捕虜になり、息子たちは後継者争いを始めて、帝国内は大混乱。これを「帝国の分裂時代(フェトレト・デヴリ)」と呼びます。
アンカラの戦いのあと、帝国はバヤズィトの息子たちが「次のスルタンはオレだ!」って争いを始め、11年間も内乱状態に。
ようやくメフメト1世が統一して立て直すんですが、それまでに相当なダメージを受けてしまったんです。
オスマン帝国の歴史の中でも、ここまで大きく崩れたのは後にも先にもこのときだけです。
アンカラの戦いでオスマン帝国がティムール朝に敗れた理由は、戦術の差や兵の裏切りだけじゃなく、急拡大してまだ足元がグラついていた状態だったからなんです。
バヤズィト1世の無理な進軍や、戦場選びのミスも重なって、あの勢いに乗ってたオスマンが一気に崩れてしまいました。
でも、この痛い敗北を経験したからこそ、オスマンはより強くまとまり直して、あの後の大発展につながっていくんですね。