オスマン帝国と日本の関係

オスマン帝国と日本――あまりピンとこないかもしれませんが、実はこの2つの国、19世紀後半から20世紀初頭にかけてちょっとだけ深いつながりを持ったことがあるんです。
「地理的にめちゃくちゃ遠いし、戦争もしてないし…」って思いがちですが、近代国家としての立ち位置列強に囲まれた状況がどこか似ていて、「この国とは仲良くしておきたいかも」って感じる瞬間があったんですね。
今回は、そんなオスマン帝国と日本の不思議で貴重な接点を紹介します!

 

 

きっかけは“エルトゥールル号事件”から

オスマン帝国と日本の本格的な交流が始まるきっかけとなったのが、1890年の「エルトゥールル号事件」です。
この事件、実は今でもトルコと日本の友情の象徴として語り継がれているんですよ。

 

親善使節としてやってきたオスマン艦

1890年、オスマン帝国の海軍艦艇エルトゥールル号が、皇族の使節団を乗せて日本を訪問
日本側はこれを丁重に歓迎し、両国間の外交関係が生まれるきっかけになりました。
当時のスルタン・アブデュルハミト2世は、「遠いけれど、日本は信頼できそうだ」と考えていたそうです。

 

でも帰路でまさかの悲劇が…

ところが、帰国のために出港したエルトゥールル号は、和歌山県沖で台風に遭い、座礁・沈没
乗員600人以上のうち、500名以上が犠牲になる大惨事となってしまいます。
でもここで、日本の漁師たちが命懸けで乗員を救助・手厚く看護したんです。

 

この行動がオスマン帝国に深く感動を与え、日本に対して強い友情と敬意を抱くきっかけになりました。

 

その後の交流はどう広がったの?

エルトゥールル号事件をきっかけに、両国は外交レベルでの交流を少しずつ進めていきます。
とはいえ、頻繁に行き来していたわけではありません。

 

互いに「列強に囲まれた立場」で共感

オスマン帝国はヨーロッパ列強に囲まれ、日本もまた日清戦争・日露戦争を控えて国際社会への対応に苦心していました。
そのため、「西洋とは違うけど、ちゃんと近代化を進めようとしてる国」として、お互いを注目していたんです。

 

実際、日本ではオスマン帝国の軍事改革や法整備(ミドハト憲法など)が研究対象になっていましたし、オスマン側も、「日本がどんどん力をつけている」という情報を大いに参考にしていたんです。

 

スルタンが日本の皇室に贈り物も

エルトゥールル号の悲劇のあと、スルタン・アブデュルハミト2世は日本の皇室に感謝の書簡と記念品を送付。
日本側も生還者を護送船でトルコまで送り届けるなど、しっかりと応えました。
ここでの礼儀のやり取りは、まさに“儀礼外交”の見本のような美しさがありました。

 

現代トルコとの“友情の原点”にもなった

オスマン帝国自体は第一次世界大戦後に滅亡しますが、このとき築かれた関係は、現代トルコ共和国と日本の友好の土台になっていきます。

 

トルコでは今でも英雄的に語られる

トルコではエルトゥールル号事件が「日本との友情の原点」として、教科書にも載るほど大切にされています。
しかもそのつながりは1985年のイラン・テヘラン救出劇でも再び脚光を浴びるんです。

 

“交流の少なさ”が逆に特別感を生んだ

オスマン帝国と日本は、接点が少なかったからこそ、一つ一つの出来事の重みが強く残ってるんですね。
「会う回数は少ないけど、すごく大事な友達」みたいな関係、と言ってもいいかもしれません。

 

オスマン帝国と日本の関係は、数は少ないけど強い印象と信頼に支えられた交流でした。
とくにエルトゥールル号事件を通じて築かれた“助け合いの記憶”は、国同士の関係を超えた人と人との尊敬と絆として、今も生き続けているんです。