メフメト5世は何した人?─第一次大戦下の傀儡皇帝

メフメト5世は何した人?

オスマン皇帝紹介・第35代スルタン《メフメト5世》編です。宰相主導の立憲体制下で象徴的存在にとどまりつつ、第一次世界大戦への参戦を経験した波乱の時代の皇帝。その生涯や死因、性格や逸話、功績や影響を探って行きましょう。

第35代スルタン《メフメト5世》とは何した人?
─逸話に満ちた傀儡皇帝─

メフメト5世(Mehmed V, 1844–1918)
出典:Carl Pietzner (1853–1927) / Wikimedia Commons Public domain

 

メフメト5世の基本情報
在位 1909年~1918年
出生 1844年11月2日
死去 1918年7月3日
異名 影のスルタン

父:アブデュルメジト1世
母:グルジェスタ・カドゥン

兄弟 ムラト5世、アブデュルハミト2世(異母兄)ほか
子供 メフメト・ジヤウッディン、ウスレト、マフムト ほか
功績 青年トルコ党政権下で形式的な君主として即位。第一次世界大戦ではドイツ側で参戦し、帝国は急速に衰退。事実上の権限を持たず、象徴的存在にとどまった。
先代 アブデュルハミト2世
次代 メフメト6世

 

20世紀初頭、ヨーロッパ列強の圧力はかつてないほど高まり、帝国内では民族運動と改革の波が入り乱れる混乱の時代──そんななか、まるで「調整役」のような立ち位置で即位したのが、長く皇太子時代を過ごした穏やかな人物でした。

 

その人物こそがメフメト5世(1844 - 1918)

 

この記事では、「統治というより象徴」として生涯を全うしたメフメト5世の在位期間と、その時代に起きた歴史的事件を、わかりやすくかみ砕いて解説します。

 

 

 

生涯と死因

メフメト5世の人生は、「即位までが長く、即位してからは制限され続けた」──そんなスルタン像が浮かび上がってきます。

 

アブデュルハミト2世の退位後に即位

メフメト5世はアブデュルメジト1世の息子で、兄たちが次々に短命で退位・死去する中、長らく皇太子の立場にありました。そして1909年、青年トルコ人革命によってアブデュルハミト2世が退位すると、代わって即位。すでに65歳という高齢での登場だったため、本人に強い政治的野心はなかったようです。

 

戦争のさなかに死去

治世の後半は第一次世界大戦に突入し、国全体が疲弊していく中で、1918年にイスタンブルで死去。享年73歳。彼の死の直後、帝国は終焉の坂を転げ落ちていくことになります。

 

性格と逸話

メフメト5世は温厚で控えめな性格。政治よりも詩や宗教を愛する文化系スルタンでした。

 

詩人としての顔

即位前から詩作を嗜み、スーフィズム(イスラム神秘主義)にも深く共鳴していたメフメト5世。政治闘争には関わらず、王権の象徴的存在としての役割に徹しようとしたとも言われています。

 

青年トルコ人政権との距離感

即位当初から実権は青年トルコ党(統一と進歩委員会)が掌握しており、メフメト5世自身はほぼお飾り状態。ただし、第一次世界大戦開戦時にジハード宣言(聖戦布告)を行うなど、宗教的な権威を活用される場面では積極的に動員されました。

 

 

功績と影響

政治的な決断力を発揮したわけではないものの、メフメト5世の在位期間は、大きな歴史の転換点となった時代でした。

 

三大戦争の時代

彼の治世では、イタリア・トルコ戦争(1911-12)バルカン戦争(1912-13)第一次世界大戦(1914-18)という三つの大戦争が連続して勃発。とくにバルカン戦争では、帝国のヨーロッパ領の大部分を失うという痛恨の敗北を経験することになります。

 

オスマン帝国の「終末期」象徴

政治的手腕こそ乏しかったものの、メフメト5世は激動の時代の“精神的支柱”として一定の役割を果たしました。彼の死とともに、帝国もいよいよ終わりを迎える流れが加速し、次の皇帝メフメト6世のもとでスルタン制は廃止に向かっていくのです。

 

メフメト5世は、まさに「過渡期を見守ったスルタン」でした。統治者というより、激動の時代を耐え抜いた“最後の詩人皇帝”。彼の静かな佇まいは、帝国の終焉前夜を象徴するような存在だったのです。