第一次世界大戦でオスマン帝国が失った領土

第一次世界大戦(1914~1918年)は、オスマン帝国にとって国家そのものの“終わりの始まり”でした。
それまでなんとか維持してきた中東・アナトリア・バルカンの一部が、戦後処理で一気に解体され、最終的にはトルコ共和国だけが残る形になるんです。
今回は、そんな第一次世界大戦でオスマン帝国が失った領土を、戦中・戦後の流れとともにわかりやすく整理してみましょう!

 

 

戦前にオスマン帝国が持っていた領土

大戦直前のオスマン帝国は、すでにバルカン戦争(1912–13)でヨーロッパ領土の大半を失っていたものの、それでも以下のような広大な中東・アナトリア・北アフリカの一部を支配していました。

 

大戦前の主な領土
  • アナトリア半島(現・トルコ本土)
  • シリア、レバノン、パレスチナ、ヨルダン(現・シャーム地方)
  • イラク(メソポタミア地方)
  • ヘジャーズ地方(メッカ・メディナなど)
  • イスラーム聖地を含むアラビア半島西部
  • クリミア以南の小領土、クルディスタン周辺

 

これらは宗教的・戦略的にも超重要な地域で、「カリフ制の権威」「石油資源」「紅海・スエズ経由の貿易路」など、列強が喉から手が出るほど欲しがる土地ばかりでした。

 

戦中に喪失した主要な地域

第一次世界大戦中、オスマン帝国はドイツ・オーストリアとともに「同盟国側」で参戦。
でも次第に戦線が崩れ、各地で英仏の攻撃やアラブ反乱に直面していきます。

 

アラビア半島西部(ヒジャーズ)

1916年、アラブ反乱(フサイン=マクマホン協定)によって、 シャリーフ・フサインがメッカ・メディナを中心としたオスマン支配に反旗を翻します。
そして英軍とアラブ軍(いわゆる“アラビアのロレンス”)が連携して、 オスマンの聖地支配は完全に終わりを迎えました。

 

イラク・シリア・パレスチナ地域

イギリス軍は1917年にバグダード、同年末にはエルサレムを占領。
フランスもレバノン・シリア方面へ侵攻し、シャーム地方全域がオスマンの手から離れていきます

 

戦後:セーヴル条約と事実上の“領土分配”

1918年、オスマン帝国は敗北。その後、1920年に連合国と結んだセーヴル条約によって、帝国領はほぼ全面的に分割・委任統治化されました。

 

セーヴル条約で失った地域

地域 統治・割譲先
イラク イギリス委任統治領に(後に独立)
パレスチナ・ヨルダン イギリス委任統治領に
シリア・レバノン フランス委任統治領に
ヒジャーズ(メッカ・メディナ) ヒジャーズ王国(後にサウジへ統合)
スミルナ(イズミル)・東トラキア ギリシャに一時占領される(のち回復)
アルメニア東部 独立アルメニア国家を構想(未実現)

 

カリフの支配力も完全崩壊

領土の喪失により、「イスラーム世界の守護者」としてのカリフの威信も大打撃。
実質的にカリフ制の影響範囲=オスマン帝国の地図だったので、それが崩れるというのは宗教的統合の終焉でもありました。

 

最終的に残った“オスマンの最後のかけら”

セーヴル条約に激怒したムスタファ・ケマルらが起こしたトルコ独立戦争によって、帝国の“再分割”は最終的に1923年のローザンヌ条約で修正されます。

 

その結果、現代トルコ共和国の領土(アナトリア+東トラキア)だけが、オスマンの“最後の遺産”として残ったんです。

 

第一次世界大戦でオスマン帝国が失った領土は、中東・アラビア・東欧の広範囲に及び、帝国の宗教的・軍事的・経済的中心地が根こそぎ失われた結果となりました。
この戦争は、オスマン帝国にとって単なる「敗北」ではなく、「帝国という形そのものの終焉」を意味していたんです。