
600年以上も続いたオスマン帝国は、当然ながらいろんな国と戦争を繰り返してきました。
そしてそのたびに、敵側にも知略・カリスマ・粘り強さを持つ“名将・名君”たちが登場するんです。
この記事では、そんな「オスマン帝国と敵対した名君たち」を時代別にピックアップして紹介します!
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オスマン帝国の西進(バルカン半島やウィーン方面)に対して、ヨーロッパの名君たちが立ちはだかりました。宗教戦争の色も強く、“十字軍 vs イスラム帝国”という対立構造も見られます。
15世紀、ハンガリー王国の摂政としてオスマン帝国に立ち向かった軍事の天才。
1444年のヴァルナの戦いでは敗北しましたが、1456年のベオグラード攻防戦ではオスマン軍を撃退し、ヨーロッパを震撼させた進軍を止めました。
16世紀のヨーロッパを象徴する名君。オスマン帝国とは地中海・ハンガリー・ウィーンで激しく対立。
スレイマン1世と「キリスト教世界vsイスラム世界」の頂上決戦を繰り広げ、まさに世界規模の“帝国同士の殴り合い”を演出しました。
オスマン帝国が拡大を始めた14〜15世紀、バルカン諸国のリーダーたちは不利な状況でも必死に抵抗。
その中には伝説級の英雄や、後世にドラマチックに語られる人物も登場します。
14世紀、オスマン帝国が本格的に侵攻する前に登場したセルビアの黄金時代の皇帝。
帝国としてバルカン半島を制圧しかけた実力者で、オスマンと本格的な衝突はありませんでしたが、その後の抵抗の精神的支柱とされました。
そう、あの“ドラキュラ”のモデルとされるヴラド3世。
15世紀、オスマンの進出に対してゲリラ戦術を駆使して異常な粘り強さを見せます。
串刺し刑などの残虐行為で恐れられましたが、独立を守ろうとした執念は伝説的です。
オスマン帝国は中東でも激しく戦いました。特にイランのサファヴィー朝やインドのムガル帝国との関係は、しばしば“イスラム同士の衝突”にもなっていきます。
16世紀初頭、イランにシーア派国家を建国したカリスマ君主。
オスマン帝国とは宗派(スンニvsシーア)も対立しており、チャルディラーンの戦い(1514)では敗れるものの、以後のイランの宗教的・政治的アイデンティティを築いた存在です。
18世紀のペルシャの復興者。
オスマン帝国に対して何度も勝利を重ね、バグダードやモースルなどの支配権を巡って激突。
「ペルシャのナポレオン」と呼ばれるほどの軍事指導者で、一時はムガル帝国をも制圧したほど。
地中海世界では、オスマン帝国の“海の覇権”にも多くの英雄が立ち向かっています。中でも特筆すべきは、オスマンの海軍を相手にした十字軍の提督たちです。
1571年、キプロスの奪還をかけたレパントの海戦でオスマン海軍に歴史的勝利を収めたスペイン王子。
若くして艦隊を率い、ヨーロッパのキリスト教勢力をまとめ上げた英雄的存在です。
16世紀の地中海の海軍提督。オスマン帝国の名将バルバロスと何度も戦った老練な海の戦士。
時に勝ち、時に負けながらも、海上におけるオスマンの膨張に真っ向から立ち向かった人物です。
オスマン帝国に立ちはだかった名君たちは、必ずしも勝者ではありませんでした。
でも彼らの抵抗、工夫、信念があったからこそ、世界史はよりドラマチックになったんです。
敵対していたけど、どこか“良きライバル”として記憶される――そんな存在ばかりです。