
オスマン帝国とオーストリア。
ヨーロッパ史に出てくるこの2つの「帝国」、実はめちゃくちゃ因縁深い関係なんです。時代も領土もかぶってるし、宗教も違えば目指す方向も真逆。しかも何世紀にもわたって戦い続けた宿敵同士。
ここでは、そんなオスマン帝国とオーストリア(主にハプスブルク帝国)との違いと関係性を、わかりやすく整理していきます!
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比較項目 | オスマン帝国 | オーストリア(主にハプスブルク帝国時代) |
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成立時期 | 1299年に建国(オスマン1世) | 976年ごろから存在(ハプスブルク家は1278年から) |
最盛期 | 16世紀(スレイマン1世の時代) | 17〜18世紀(神聖ローマ帝国後期~オーストリア帝国) |
政治体制 | スルタンによる専制君主制 | 皇帝による世襲制の君主制 |
宗教 | イスラム教(スンニ派) | キリスト教(カトリック) |
首都 | イスタンブール(旧コンスタンティノープル) | ウィーン |
主な領土 | バルカン半島、アナトリア、北アフリカ、中東 | 中欧(オーストリア、ハンガリー、チェコなど) |
軍事 | イェニチェリ(常備軍)を擁する強力な軍隊 | 重装騎兵・徴兵制・多国籍傭兵部隊 |
文化と芸術 | イスラム・ペルシャ・ビザンツ文化の融合(例:タイル装飾、建築) | バロック・古典派音楽、ローマ・ドイツ系文化の発展 |
最終的な衰退 | 1922年にスルタン制廃止、1923年にトルコ共和国へ | 1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊 |
オスマン帝国とオーストリア帝国は、どちらも「帝国」を名乗っていたけど、その成り立ちや国の中身はかなり違います。まずはそれぞれの特徴をざっくり確認しておきましょう。
1299年に成立し、600年以上続いたオスマン帝国は、イスラム教スンニ派を中心としたイスラム君主制国家。
東ローマ帝国を滅ぼし、ヨーロッパ・アジア・アフリカの3大陸にまたがる広大な領土を持っていました。
皇帝(スルタン)は宗教的にもカリフ(イスラム共同体のリーダー)として権威を持ち、軍事・政治・宗教が一体化した帝国でした。
オーストリアは、もともとは神聖ローマ帝国の有力な一部。
16世紀以降はハプスブルク家が皇帝を世襲し、ヨーロッパのキリスト教世界を代表する存在に。
1804年には正式にオーストリア帝国を名乗り、19世紀にはオーストリア=ハンガリー帝国として二重帝国体制に進化しました。
つまりこちらはキリスト教×ヨーロッパの正統派帝国なんです。
両者は宗教的にも政治的にも対立構造にありました。でも、実は国境が隣接していたせいで直接的な関わりが超多いんです。むしろ「争わないほうが無理」なくらい近い存在だったんですね。
有名なウィーン包囲(1529年・1683年)は、まさにオスマン帝国とオーストリアの直接対決。
どちらも「ヨーロッパの中心」を巡ってぶつかり合った象徴的な戦争です。
とくに1683年の第二次ウィーン包囲戦では、オスマン帝国が西ヨーロッパに広がるチャンスを失う転機となりました。
オーストリア(ハプスブルク家)は、ローマ教皇とも連携しつつ「キリスト教世界の防波堤」としての役割を果たしていました。
つまり、オーストリアはヨーロッパ側の“防衛リーダー”、オスマンはイスラム世界の“拡張リーダー”という構図で、がっつり対立してたんです。
何世紀にもわたって争ってきたこの2国。でも19世紀に入ると状況は変わってきます。両国とも近代国家への対応に苦しみ、少しずつ「敵同士」から「似た者同士」へと関係が変化していきます。
オスマン帝国はトルコ・アラブ・ギリシャ・アルメニアなど、オーストリア=ハンガリー帝国はドイツ・ハンガリー・チェコ・スラブなど、どちらも多民族国家で、19世紀にはナショナリズムの台頭に悩まされます。
「民族独立の波にどう対応するか」は、両帝国の共通の課題だったんです。
20世紀になると、なんとこの両国は同盟国として第一次世界大戦に参加します。
オスマン帝国・ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国という形で中央同盟側に並び立ち、かつての敵同士が味方になるという歴史の皮肉な展開が起こります。
でも、結局どちらも敗戦国として滅亡してしまうんです。
オスマン帝国とオーストリア帝国は、宗教・文化・地理すべてにおいて真逆の存在でした。
でもその違いがあるからこそ、何世紀にもわたる激しい対立と、最後には同じ運命をたどるという、ドラマのような歴史が生まれたんです。