
「青年トルコ革命」――この出来事は、オスマン帝国が近代国家へと“無理やり舵を切った”ような大転換点でした。
いつ、どこで、なぜ起きたのか?
この3つのポイントを押さえておくと、帝国崩壊のプロセスや、近代トルコ誕生への流れがグッと分かりやすくなります!
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勃発年: 1908年
場所:主にマケドニア(現在の北マケドニア周辺)
この年、オスマン帝国の辺境に駐屯していた若い将校たちが中心となって、スルタンの専制体制に対して立憲政治の復活を求めて蜂起します。
この革命をリードしたのが、「統一と進歩委員会(CUP)」という秘密組織。
彼らは「青年トルコ人(ジュネ・トゥルク)」と呼ばれていて、多くが官僚・軍人・学生でした。
活動拠点はマケドニアのサロニカ(現テッサロニキ)で、当時はスルタンの目が届きにくい“ちょっと遠い場所”だったんです。
この革命の背景には、いくつもの深刻な問題が重なっていました。
彼らが立ち上がったのは、ただ「改革したい!」ってだけじゃなく、帝国がこのままだと沈む!という強烈な危機感からなんです。
アブデュルハミト2世は1878年に憲法と議会を停止し、そこから30年間の専制体制を築いていました。
など、反体制派にはとことん冷酷。
この強権政治にうんざりした若い官僚・軍人・学生たちが革命に立ち上がるんです。
スルタンのやり方では国家が持たない!と焦った将校たちは、「政治を立て直すには憲法と議会が必要」と考えたんですね。
青年トルコ人たちはフランス革命や西欧思想に影響を受けていて
などを求めていました。
つまり、旧来の宗教・王権中心の体制をリセットしたかったんです。
青年トルコ革命によってスルタンが憲法を再施行し、議会が復活。
これがオスマン帝国第2次立憲制のはじまりです。
一時は「帝国再生なるか?」という雰囲気もありました。
統一と進歩委員会はその後、政敵を排除して一党支配に近い状態に。
1913年のクーデターで事実上政権を掌握し、第一次世界大戦では同盟国側として参戦。
この決断が、オスマン帝国最終章への引き金となってしまいます。
青年トルコ革命は、1908年にマケドニアで始まった、スルタンの専制政治に対する大規模な改革運動でした。
「憲法を守れ!議会を開け!」という声が、帝国を一度は立憲政治へと引き戻します。
でもその理想は、すぐに現実の権力闘争に飲まれ、帝国の崩壊へとつながっていく――
希望と混乱が同居した、近代オスマン最後のドラマとも言える革命だったんです。