オスマン帝国とモンゴル帝国の違いと関係

オスマン帝国とモンゴル帝国。
世界史における超ビッグネーム同士ですが、「どっちも広い領土を持った帝国」ってこと以外、意外と関係がよくわからないという人も多いはず。実はこの2つ、直接の戦争はしていないけれど、意外なつながりはっきりした違いを持っています。
この記事では、そんな2つの大帝国の違い関係性をわかりやすく整理していきます!

 

 

オスマン帝国とモンゴル帝国の比較表

比較項目 オスマン帝国 モンゴル帝国
成立時期 1299年(オスマン1世により建国) 1206年(チンギス・ハンにより建国)
最盛期 16世紀(スレイマン大帝の時代) 13世紀中葉(モンケ・ハン〜フビライの時代)
政治体制 スルタンによる中央集権的専制体制 ハーン(大カアン)を頂点とする遊牧君主制、後に分裂
宗教 スンニ派イスラム(国家と宗教が密接) 初期はシャーマニズム中心、後に寛容な多宗教政策(イスラム、仏教、キリスト教など)
首都 イスタンブール(1453年以降) カラコルム(初期)、後に分裂して各地に首都(大都など)
領土 アナトリア、バルカン、中東、北アフリカ ユーラシア大陸の大部分(史上最大の連続陸地帝国)
軍事 常備軍(イェニチェリ)、火器と要塞戦に強み 騎馬弓騎兵、機動戦術、心理戦に優れる
文化と統治 ビザンツ、イスラム、トルコ文化の融合、行政文書・法制度整備 被支配地に応じた柔軟な統治、文化には干渉せず、現地官僚を活用
後継国家 1923年にトルコ共和国が成立 元朝、イルハン朝、チャガタイ・ハン国、キプチャク・ハン国などに分裂
支配の終焉 1922年(スルタン制廃止) 14世紀半ば以降に分裂・衰退

 

基本の立ち位置:時代も場所もずれている

まずは「そもそもいつどこにあったのか?」を押さえておくと、両者の位置関係がスッと見えてきます。
重なってるようで、時代もエリアも意外とズレているんですよ。

 

モンゴル帝国は13世紀のユーラシア制覇王者

モンゴル帝国はチンギス・ハンによって1206年に建国され、一時期は中国・中央アジア・中東・東ヨーロッパまでを覆う史上最大級の陸上帝国になりました。
支配方法は比較的柔軟で、征服先の文化や宗教を受け入れる寛容型の征服国家だったのも特徴です。

 

オスマン帝国は13世紀末〜20世紀の“長寿帝国”

オスマン帝国が登場するのは1299年
これはちょうどモンゴル帝国が4つのハン国に分裂して弱体化し始めた時期と重なります。
拠点は現在のトルコで、東ローマ帝国を倒して3大陸にまたがる“超長寿帝国”に成長します。

 

違い①:成り立ちと拡大の仕方

同じ「帝国」でも、成り立ちも成長のやり方もまるで違います。
片や征服特化型、片や制度構築型という方向性の差がくっきり出てるんです。

 

モンゴル帝国は“遊牧民のスピード制圧”

モンゴル帝国は、馬を自在に操る遊牧民たちが電撃的に周辺を征服していった国。
とにかく移動と戦闘のスピードがケタ違いで、100年足らずでユーラシア半分を制圧したのは、今でも伝説級の出来事です。
その一方で、国家運営は現地の官僚や制度にお任せというスタイルでした。

 

オスマン帝国は“少しずつ築く制度型国家”

オスマン帝国は、最初はアナトリアの小さな辺境国家。
そこから軍事と政治制度をじっくり育てて拡大していきました。
戦って勝って終わりではなく、統治する仕組み(軍制・税制・法制度)をセットで導入するのが大きな特徴です。

 

違い②:宗教と国家の関係性

宗教をどう扱うかも、両者でかなり違っていました。
とくにオスマン帝国は、宗教そのものを国家の核に据えたのに対して、モンゴル帝国はもうちょっと「ビジネスライク」。

 

モンゴル帝国は“多神教×宗教寛容”

モンゴル帝国は元々シャーマニズム系の多神教
でも支配した土地には仏教・イスラム教・キリスト教などがあって、それぞれの信仰を基本的に容認。
支配者によっては、イスラムに改宗したハンもいたけれど、宗教を統治の道具として使う柔軟さがありました。

 

オスマン帝国は“イスラム国家の王道”

オスマン帝国はスンニ派イスラムを国家の軸に据え、16世紀にはスルタンがカリフ(イスラム世界の宗教的指導者)も兼ねるようになります。
ミッレト制度で異教徒にも一定の自治は認めたものの、基本はイスラム法(シャリーア)に則った国家運営。
宗教と政治ががっつりセットになったスタイルでした。

 

関係性:オスマン帝国は“モンゴルの影響を受けていた”

直接の戦争はなかったけれど、実はオスマン帝国の誕生には、モンゴル帝国の崩壊が深く関係しています。

 

モンゴルの西進がセルジューク朝を弱体化

13世紀、モンゴル帝国が西アジアに進出してくると、当時アナトリアを支配していたセルジューク朝(ルーム・セルジューク朝)がボロボロに。
この混乱で生まれた小国の一つがオスマン家だったんです。
つまり、モンゴル帝国が崩した旧秩序のすき間から、オスマン帝国が育ってきたとも言えます。

 

「チンギス・ハンの威光」は間接的に影響

当時のイスラム世界では、チンギス・ハンの血統を名乗ることが統治の正当性に関わっていました。
実際、オスマン帝国のライバルだったティムール(ティムール朝)はモンゴル帝国の後継を自称しており、オスマンもそれに対抗する形で自分たちの権威を築いていったわけです。

 

オスマン帝国とモンゴル帝国は、直接戦ったわけじゃないけれど、モンゴルの「あと」に登場し、その遺産や空白を引き継ぐ形で登場しました。
征服のスピードではモンゴル、統治の継続性ではオスマン。どちらも世界史に欠かせない“異次元級”の帝国です。