
第33代スルタン《ムラト5世》とは何した人?
─精神疾患で即位後すぐ退位した幻の立憲君主─
ムラト5世(Murad V, 1840–1904)
出典:トプカプ宮殿博物館 / Wikimedia Commons Public domain
在位 | 1876年5月30日~1876年8月31日 |
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出生 | 1840年9月21日 |
死去 | 1904年8月29日 |
異名 | 幻のスルタン |
親 |
父:アブデュルメジト1世 |
兄弟 | アブデュルハミト2世、メフメト5世(異母弟)ほか |
子供 | メフメト・セラハッディン ほか |
功績 | フリーメイソンや西洋思想に傾倒し、立憲制への期待を集めて即位するも、精神不安定を理由に即位わずか93日で廃位。実質的な統治実績はない。 |
先代 | アブデュルアズィズ |
次代 | アブデュルハミト2世 |
1876年、オスマン帝国は深刻な財政危機と政治不信に揺れていました。そんな中、国民から「西欧の教養人」として期待を集めながら即位した皇帝がいました──しかし、その治世はわずか93日間。
その人物こそがムラト5世(1840 - 1904)!
この記事では、「自由主義の理想」と「精神の不安定さ」に引き裂かれたムラト5世の波乱の人生を、わかりやすくかみ砕いて解説します。
ムラト5世の人生は、「即位までがハイライト」と言いたくなるほど、劇的で、そして短かったのです。
ムラト5世はアブデュルメジト1世の息子。幼少期からフランス語・ピアノ・文学を学び、自由主義思想に共鳴。とくにフランスの立憲君主制に強い関心を抱いていたとされます。そんな彼が、叔父アブデュルアズィズの廃位によって1876年に即位したとき、多くの人が「今こそ立憲制が始まるかも!」と期待を寄せました。
ところが即位からわずか3か月後、ムラト5世は精神的な不安定を理由に医師団と大宰相の判断で退位させられてしまいます。のちに一部では「陰謀だったのでは?」という説もささやかれましたが、彼自身も治世に耐えうる状態ではなかったようです。
その後はイスタンブルのチラーン宮殿に半幽閉され、1904年に病死。享年63歳でした。
ムラト5世は、誠実で繊細、そして少しナイーブな理想家だったと伝えられています。
フランス文学や音楽、演劇などに親しみ、詩作やピアノ演奏を楽しんだというムラト5世は、当時のオスマン皇族の中でも群を抜いて西洋文化に通じていた人物でした。なかでもヴィクトル・ユゴーの大ファンだったという逸話は有名です。
退位後は政治の舞台から完全に外されましたが、幽閉生活の中でも訪問者に丁寧に接する姿が語り草に。書物を読み、音楽を奏で、時に「今も自分は皇帝である」と語ったとも言われます。その姿に、哀しさと気高さが同居しています。
即位期間が短かったため、政治的な実績はほとんどありませんが、ムラト5世の存在が残した“余韻”は意外と大きなものでした。
ムラト5世の即位は、当時の改革派にとって「立憲君主制実現のチャンス」と受け止められました。たとえ実現には至らなかったとしても、彼のような“西欧型君主”への渇望は、のちのミドハト・パシャとアブデュルハミト2世による第1次憲法発布(1876年)へとつながっていくことになります。
ムラト5世の即位によって、それまでの「専制君主」から「開明的・教養人型の皇帝」へのイメージ転換が始まったとも言えるでしょう。たとえ短命だったとしても、文化と自由を重んじる姿勢は、時代に新風を吹き込んだのです。
ムラト5世は、時代が求める理想と、個人としての限界のはざまで揺れた“幻の立憲君主”でした。政治の表舞台には立てなかったけれど、その存在そのものが、次の時代への橋渡しとなったスルタンだったのです。