
スペインで異端とされたユダヤ人たちが、オスマン帝国では保護され、時にはスルタンに仕える宮廷顧問や医師にまで登りつめていた――
こんな話を聞くと、16〜17世紀のヨーロッパとはまったく違う“寛容の姿”が見えてきますよね。
実はオスマン帝国は、建国当初から異教徒の存在を前提とした多宗教社会であり、キリスト教徒やユダヤ教徒にもそれなりの自由が与えられていたんです。
この記事では、オスマン帝国とユダヤ人との長く深い共生関係、そして商業・医学・宮廷との意外なつながりまで掘り下げて見ていきましょう。
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15世紀末、スペインとポルトガルで「異端審問」が強まり、多数のユダヤ人が追放されました。
このとき、彼らに手を差し伸べたのが、オスマン帝国のスルタン・バヤズィト2世でした。
1492年、スペインのカトリック両王がユダヤ人の国外追放を命じると、約15万人ものユダヤ人が住む場所を失いました。
オスマン帝国はこれに対して、難民としての受け入れを快諾し、バルカン、アナトリア、イスタンブール、サロニカ(現ギリシャ)などに移住させたんです。
当時のスルタン・バヤズィト2世は、「自国の富と知恵を追い出したスペイン王は愚か者」とさえ語ったと言われています。
こうして流入したユダヤ人の多くは、スペイン系ユダヤ人(セファルディム)で、彼らは独自の言語ラディーノ語(ユダヤ・スペイン語)を話しながら、宗教・教育・出版などの活動を積極的に展開しました。
特にサロニカは、「ユダヤ人の都市」と呼ばれるほど、ユダヤ文化の一大拠点になっていきます。
オスマン帝国は、ユダヤ人を単なる「宗教的少数派」としてではなく、経済や知識の担い手として重用していました。
その中には、宮廷の中枢にまで関わった人物もいたんです。
中でも有名なのが、16世紀スレイマン1世に仕えたヨーゼフ・ハムオンやモーゼス・ハモンのようなユダヤ人医師。
彼らは宮廷内で高い地位を得て、外交・医療・科学面での助言者として重用されていました。
さらに、外交文書の翻訳やヨーロッパ使節との交渉において、ラディーノ語や複数言語に堪能なユダヤ人たちが通訳官(ドラーン)として活躍します。
ユダヤ人たちは、オスマン経済にとって欠かせない国際商業ネットワークを担っていました。
特にダイヤモンドや金細工といった高級贅沢品の流通や、ヨーロッパとの交易ルートに強く、イスタンブールの市場(バザール)にはユダヤ人商人の姿が数多く見られたそうです。
オスマン帝国では、イスラム教徒以外の人びとにも一定の自律性を与える「ミッレト(宗教共同体)制度」がありました。
これによってユダヤ人たちは、自分たちの宗教・教育・婚姻・司法を独自に運営できたんです。
もちろん、完全な平等というわけではなく、ユダヤ人やキリスト教徒はズィンミー(庇護民)とされ、一定の制限や特別税(ジズヤ)が課せられていました。
しかしその代わりに、迫害や改宗の強制は行われず、一定の保護が保証されていたという点で、当時のヨーロッパ諸国よりもずっと“寛容”だったのです。
19世紀後半になると、ユダヤ人たちは新聞・印刷業にも進出し、ラディーノ語やフランス語のユダヤ系紙がイスタンブールで発行されるようになります。
つまり、オスマン帝国はユダヤ文化の“避難所”だけでなく、発展と再生の場でもあったんですね。
オスマン帝国は、ユダヤ人にとって迫害の対象ではなく、知識と信仰を守り抜くことができた貴重な“共存空間”でした。
中には宮廷医や経済顧問として、帝国の中枢に関わる人物まで現れたほど。
それは、宗教的寛容と実利主義がうまく組み合わさった、オスマンならではの統治のかたちだったのかもしれませんね。