最強を誇ったオスマン帝国が滅亡した理由

あれだけ広くて強かったオスマン帝国が、なんで滅びちゃったの?
これ、世界史でもよくある疑問です。最大で40か国以上にまたがる大帝国、軍事も経済も超ハイレベル。なのに20世紀に入って突然、歴史の舞台から姿を消します。
この記事では、その「最強のオスマン帝国が滅びた理由」をわかりやすくまとめていきます!

 

 

国内の制度がボロボロになっていった

長い歴史を持つ帝国の弱体化って、外から攻められたからというより中から崩れていくことが多いんです。オスマン帝国もその典型例。強かった仕組みが、逆に時代遅れになっていきました。

 

スルタンの力が弱まりすぎた

かつては絶対的な皇帝=スルタンが国家を動かしていたのに、17世紀以降はスルタンの権威がどんどん低下。
宮廷の派閥争い、宦官や母后の権力介入、無能な皇帝の連続……。
最終的には「スルタンいてもいなくても一緒」みたいな状態に。

 

軍隊が腐敗して時代遅れに

最強を誇ったイェニチェリ軍団も、17世紀ごろには完全に保守的でワガママな特権階級に変貌。
新しい戦術や武器を拒み続け、「昔のやり方が一番!」とガンコなままで近代化に大ブレーキ。
結果、ヨーロッパ列強の近代軍にまったく歯が立たなくなってしまいました。

 

周辺国との関係で完全に後手に回った

一時はバルカン、北アフリカ、中東まで制圧していたオスマン帝国ですが、18世紀以降は列強の力関係に巻き込まれる側になります。帝国はだんだん“世界の中心”から“外交の踏み台”みたいな存在になっていきました。

 

ヨーロッパ列強にバチバチに押される

とくにロシア帝国との戦いには何度も敗北。黒海沿岸やバルカン半島での領土をどんどん失います。
また、イギリスやフランスからも経済的・軍事的に圧力をかけられるように。19世紀には「ヨーロッパの病人」なんて不名誉な呼ばれ方までされてしまいます。

 

民族の独立運動が連鎖する

帝国内には多数の民族がいて、それぞれに宗教や言語も違いました。バルカン半島ではギリシャ・セルビア・ブルガリアなどが次々に独立。
この波は中東にも広がって、アラブ人たちも「もうオスマンに従いたくない」という空気に。
支配していた地域の人々が、もはや帝国を“自分たちの国”と思っていなかったんです。

 

第一次世界大戦への参戦がトドメになった

それでも帝国はしぶとく生き残っていました。でも、最後の最後で致命的な選択をしてしまいます。それが、第一次世界大戦への参戦。ここから一気に終わりに向かいます。

 

負ける側に乗っかってしまった

オスマン帝国はドイツやオーストリア=ハンガリーと同盟を組んで戦争に突入。 結果はご存じの通り、敗戦
イギリス・フランスなど連合国に領土を切り取られ、戦後処理でバラバラに解体されていきます。

 

トルコ共和国の誕生で正式に終焉

戦後、オスマン帝国は「もう政治的にも経済的にも立ち直れない」状態に。 そしてムスタファ・ケマル・アタテュルク率いる独立運動が始まり、1922年にスルタン制が廃止され、帝国は正式に終了。
翌1923年にはトルコ共和国が誕生し、オスマン帝国600年の歴史は幕を下ろします。

 

オスマン帝国の滅亡は、外からの攻撃だけじゃなく、内側の制度疲労や近代化への対応の遅れが重なって起きた“静かな崩壊”でした。
それでも、その存在感は今なお世界史に色濃く残り続けています。