
オスマン帝国が長~く続いた帝国だったってことは、それだけいろんな外交問題にも悩まされ続けたってことなんですよね。
なかでも「これが痛かった!」っていう大きな外交上の問題は、歴史をひっくり返しかねないレベルの深刻さでした。
今回はオスマン帝国を内部からジワジワ弱らせていった“三大外交問題”に絞って、背景と影響をわかりやすく解説していきます!
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もともとは通商を活発にするための“好意的な制度”としてスタートしたカピチュレーション。
でも時代が進むにつれて、これが完全にオスマン帝国の足かせになっていくんです。
16世紀にフランスに与えられた通商特権を皮切りに、イギリス、オランダ、オーストリアなどが次々と自国民に特別な貿易・裁判権を要求。
オスマン側は「うちの支配下にいる外国人は、自国の法律で裁いていいよ」「税もちょっとまけていいよ」って認めてしまったわけです。
結果として、オスマン帝国内に“治外法権ゾーン”が増加。
外国商人は税も安く、ルールも自国ベース。地元商人が競争に負けて潰れていく事態に。
最初は外交交渉の武器だった制度が、最終的には「自国で自国を守れない構造」を生んでしまったんですね。
19世紀に入ると、オスマン帝国は近代化のために欧州列強から大量の借金を抱えるようになります。
でもその返済が難しくなると、帝国の財政そのものが“外から管理される”という異常事態に。
財政が完全に行き詰まり、オスマン帝国は債務不履行を宣言。
その後、列強が「じゃあこっちで徴税して回収するね」と設置したのがオスマン公債管理局(ダイナ)です。
ここが塩税やタバコ税など重要な歳入を直接管理するようになり、実質的な経済主権が失われていきます。
債務国になったことで、列強の顔色を見ながら政治判断をしなきゃいけない状態に。
鉄道建設、軍備調達、関税の設定――すべてに「外国の同意が必要」という制限が生まれていったんです。
18世紀末〜19世紀にかけて、帝国を構成していたバルカン地域の民族たちが次々と独立運動を始めます。
ここに、ロシア・イギリス・フランスといった列強が絡んでくることで、外交はさらに泥沼に…。
1821年に始まったギリシャ独立戦争では、ヨーロッパ各国の知識人・世論がギリシャ側を全面支援。
最終的にナヴァリノの海戦(1827年)で列強が介入し、帝国海軍は壊滅。
ギリシャは1830年に独立し、ここから「バルカン独立ドミノ」が始まるんです。
ロシア帝国は、オスマン領内の正教徒(特にブルガリアやセルビア)の保護を名目に、しばしばバルカン諸国の独立運動を後押し。
それに反発したイギリス・オーストリアと、帝国の領土をめぐって列強同士も外交的綱引きを始めます。
結果、オスマンは国内の不満と外からの圧力の板挟みに。
オスマン帝国を蝕んだ三大外交問題――
① 通商特権(カピチュレーション)の乱用、② 債務による経済主権の喪失、③ バルカン民族と列強の介入。
これらはすべて、「対外的に譲らざるを得なかった妥協の積み重ね」から始まったものでした。
そして気がつけば、国内を動かすにも、いちいち“列強の顔色”をうかがわなければならない帝国になっていたんです。