
オスマン帝国の通貨――特に金貨や銀貨には、ただの「お金」ってだけじゃない、ちょっと面白くて深い話がいろいろあるんです。
どんな場面で使われてた?どうデザインされてた?信用はどうやって保たれてた?
今回はそんな、オスマン通貨にまつわるちょっとした豆知識をいくつか紹介します!
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オスマン帝国の貨幣を見ると、毎回必ず入っている不思議なマークがあるんです。
それが「トゥグラ(Tughra)」と呼ばれる、スルタンの署名をアート化したような図案。
これがあることで「この通貨は正規の国家発行です」という公式の証明になっていました。
トゥグラは単なるロゴじゃなくて、スルタンの名前と称号を組み合わせた書法。
スレイマン1世なら「スレイマン・カーン・ビン・セリム・ハーン(セリムの子スレイマン)」という感じで、代替わりごとに刻印も更新されていきます。
オスマン帝国では、金貨・銀貨はもちろん日常の取引にも使われていましたが、実は冠婚葬祭のシーンでも大活躍だったんです。
オスマンの婚礼文化では、金貨を衣装にピン留めして花嫁に贈るという風習が広く見られました。
これは見栄+財産の移転+家同士の誇示みたいな意味合いがあって、特にスルタン家の結婚式では金貨の量が桁違い。
現代トルコでも、この習慣は「伝統文化」として今も残ってるんですよ。
経済の話になると気になるのが「じゃあ、実際いくらぐらいの価値があったの?」ってことですよね。
たとえばスレイマン大帝の時代、銀貨アクチェ1枚でパンが3〜4個買えたという記録が残っています。
つまり、今の感覚だとだいたい100〜150円くらいのイメージでしょうか。
ちなみに、兵士の日給は20〜30アクチェ前後だったので、アクチェ=日常生活のリアルなお金だったんですね。
貨幣って、重さや素材の質で信頼されるもの。
オスマン帝国でも、銀や金の純度を保つための厳格な管理体制が敷かれていました。
首都イスタンブールの中央造幣所(ダルプハーネ)では、定期的に「官製貨幣と市中の貨幣が同じ品質か」を検査していました。
質が悪いと判明すれば、関係者は罰を受けることもあったそうです。
そのくらい、通貨の“信頼”は帝国の威信と直結していたんですね。
帝国の商業都市では、意外にも外国の金銀貨がふつうに流通していました。
特にハプスブルク家(オーストリア)が発行したターラー銀貨は、純度も重さも安定してると評判で、オスマン市場でもお墨付きの通貨として幅広く流通していました。
ときには、自国通貨よりターラーのほうが信頼される…なんてことも。
オスマン帝国の金貨や銀貨は、単なるお金を超えて、政治・文化・外交・生活のすべてに関わっていた存在でした。
その重みは「通貨」そのものというより、“信用”や“象徴”の力。
帝国の栄光とともに刻まれた、それぞれのコインには、静かだけど確かな歴史が息づいていたんです。