
第17代スルタン《ムラト4世》とは何した人?
─厳格な禁酒令で知られる専制君主─
ムラト4世(Murad IV, 1612–1640)
出典: Wikimedia Commons Public domain
在位 | 1623年~1640年 |
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出生 | 1612年7月27日 |
死去 | 1640年2月8日 |
異名 | 鉄の規律のスルタン |
親 |
父:アフメト1世 |
兄弟 | イブラヒム、カシム、バヤズィト、スレイマン ほか |
子供 | アラエッディン、アーメト ほか(夭折) |
功績 | 酒・煙草・コーヒーの厳禁を通じて風紀を粛正し、軍規と統治を立て直した。バグダード遠征でサファヴィー朝に勝利し、帝国の威信を回復。 |
先代 | ムスタファ1世 |
次代 | イブラヒム |
オスマン帝国が混乱に揺れていた17世紀初頭、暴動、汚職、宗教対立、軍の暴走といった問題が一気に噴き出し、帝国は“迷走時代”に突入していました。そんな中で登場したのが、強烈なリーダーシップと徹底的な恐怖政治で帝国を“強制的に正す”ことを試みたスルタン。
その人物こそがムラト4世(1612 - 1640)!
この記事では、若きスルタンがどのようにして無秩序の帝国を立て直そうとしたのか、そしてその裏にあった過酷な現実と功罪を、わかりやすくかみ砕いて解説していきます。
ムラト4世の人生は、まさに“波乱の中の即位と、恐怖による統治”の連続でした。
ムラト4世は、父アフメト1世、母ケセム・スルタンの間に生まれ、わずか11歳でスルタンに即位。とはいえ幼少のため、実権は母ケセムが握る“摂政政治”がしばらく続きます。
しかし彼が成長すると、突然“強権モード”に切り替わるのです。青年期には自ら政治の実権を掌握し、徹底的な粛清と統制を始めます。
治世後半、ムラト4世は健康状態が悪化し、1640年に28歳の若さで死亡。死因は肝硬変とされており、皮肉にも自ら禁じた酒に深く溺れていたことが裏目に出た格好です。
なお彼には子がなかったため、弟のイブラヒム1世が跡を継ぐことになります。
ムラト4世は、非常に強権的で恐れられる一方、その内面には矛盾と情熱が混在していました。
彼の最大の特徴は、なんといっても過激な禁令政策。酒、タバコ、カフェでの雑談、夜間の外出など、帝都イスタンブルにおけるあらゆる“不道徳”を次々に禁じていきます。
しかもそれを徹底させるために、自ら変装して市中を巡回し、違反者をその場で処刑することもあったんだとか。
そんな恐怖の支配者にも、意外な一面が。ムラト4世は詩作や書道にも通じており、ペルシア語の詩をたしなむ一面もありました。つまり、芸術を愛する感性と、鉄拳で秩序を打ち立てようとする過激さが同居していたわけです。
このギャップこそ、ムラト4世を単なる“暴君”と呼び切れない理由かもしれません。
ムラト4世の治世は短命ながら、帝国の混乱期を一時的に立て直した点では高く評価されています。
1638年、ムラト4世はサファヴィー朝との戦争で自ら出陣し、バグダードを攻略。これによって翌年にはズハブ条約が結ばれ、東方国境が安定化します。
この遠征は、スレイマン大帝以来となるスルタンの“実戦出陣”であり、軍の士気を高め、ムラト4世の統率力を示す大きな成果となりました。
もうひとつの功績は、混乱していた行政機構と財政の再建。官僚の腐敗を粛清し、税制度を整理し直すなど、内部のガバナンス強化に尽力しました。
もちろんやり方は強引そのものでしたが、秩序が崩壊寸前だった帝国にとっては、ある意味“劇薬”のようなカンフル剤だったのです。
ムラト4世って、暴力と規律で秩序を取り戻そうとした“鉄のスルタン”だったんですね。でも実は詩人で文学好きだったりするから、単なる暴君じゃないのが面白いところ。まさに“拳とペン”を両方使った支配者だったのです。