
「東方問題」――なんだか難しそうな名前ですよね。でもこれ、実はオスマン帝国の衰退と列強の介入が絡み合った、19世紀ヨーロッパの外交の超重要キーワードなんです。
この問題が起きたことで、オスマン帝国はどんな変化を迫られたのか?
外交だけじゃなく、内政・領土・制度までもが揺さぶられていく様子を、順を追って見ていきましょう!
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まずはざっくり背景から。この問題は、「ヨーロッパ列強が、弱ってきたオスマン帝国をどう扱うか?」という話なんです。
18〜19世紀、オスマン帝国は戦争続き・改革の遅れ・民族独立運動などでガタガタに。
そんな中で、イギリス・フランス・ロシア・オーストリアなどの列強は、「帝国が崩れたとき、その領土をどう山分けするか」に興味津々だったわけです。
ロシア帝国は、オスマン領内の正教徒を保護するという名目でバルカンに干渉を強めていきます。
そしてそれを警戒したイギリスやフランスが「それはさせない!」と入り込み、列強同士のバトルも加速していく。
これが「東方問題」の核心なんです。
東方問題の最大の影響は、なんといっても領土がどんどん削られていったことです。
1820年代のギリシャ独立を皮切りに
といったバルカン諸国が次々に独立していきます。
しかもそのたびに、ロシアやオーストリアが後押しして、「オスマン包囲網」がじわじわ完成していく感じ。
オスマン帝国は19世紀に何度も露土戦争を繰り返し、そのたびにグルジア、アルメニア、カルス、バトゥムなどを手放すことになります。
つまり、黒海周辺の支配力が完全に崩れていったわけです。
外交上の圧力は、当然国内制度にも火をつけます。
「帝国が崩れないためには、もう内部から変えるしかない!」と、オスマン政府も焦りながら近代化改革に踏み切ります。
1839年のギュルハネ勅令、そして1856年のイスラーハト勅令によって、オスマン帝国はすべての臣民に平等な権利(宗教関係なく)を保障する方向に舵を切ります。
これは、「もう宗教差別してたら列強に口出しされちゃう!」という外圧からの危機感が背景にあったんです。
特にクリミア戦争後は、列強の「正教徒守れよ」「少数派ちゃんと扱えよ」っていう圧力が強まり、オスマン政府は「ちゃんとやってます!」と法制度・軍・教育を欧風に整備していきます。
ただ、これが宗教伝統や地方勢力との摩擦を生んでしまうという副作用もありました。
もはやオスマン帝国の領土問題は、その国だけの問題じゃなく、列強みんなの利害のぶつかり合いになっていきます。
1877年の露土戦争のあと、ロシアはサン・ステファノ条約で大きな譲歩をオスマンから勝ち取りました。
でもそれを他の列強(特にイギリス・オーストリア)が認めず、ベルリン会議で“調整”が行われます。
その結果・・・
と、もう帝国の頭越しに領土が分配されるという屈辱的な展開に。
このあたりから、オスマン帝国は「独立国家というより“列強管理下の領域”」に近づいていきます。
東方問題によってオスマン帝国に起きた変化は
という三重苦でした。
帝国は“死に体”ではないけれど、もはや自分の力だけで自分の未来を決められない―― 東方問題とは、まさにその帝国の終わりのはじまりを告げるシグナルだったんです。