
オスマン帝国の“エジプト総督”ムハンマド=アリー。
一見、地味な役職に思えるかもしれませんが、実はこの人、オスマン帝国を揺るがすレベルの大改革者&軍事の天才なんです!
むしろ「なんでこの人、皇帝にならなかったの?」って言いたくなるくらいスゴい人。
この記事では、そんなムハンマド=アリーの人生と功績、そしてオスマン帝国との複雑な関係を分かりやすく紹介していきます!
|
|
まずは基本情報から。ムハンマド=アリーは「総督」としてエジプトを治めていた人ですが、ただの地方役人では終わりませんでした。
彼はもともとオスマン帝国の軍人で、ナポレオン戦争後の混乱の中、1805年にエジプト総督(ワーリー)に就任。
でもその後は、オスマン帝国の命令を無視しつつ、実質的に独立したような統治を始めます。
つまり、形式上はオスマンの配下だけど、中身は“ほぼ独立国の君主”。
出身はエジプト生まれでもアラブ人でもなく、なんとアルバニア系。
それでも後に「近代エジプトの創始者」と呼ばれるほど、エジプトの国家基盤を作った人物として知られています。
ムハンマド=アリーのすごさは政治改革・経済発展・軍事強化のすべてを同時にやってのけたところ。
その手腕は、「エジプト版ナポレオン」とも呼ばれるほど圧倒的でした。
・徴兵制を導入して常備軍を近代化
・農業改革で綿花などの輸出用作物を育成
・ヨーロッパに若者を留学させて西洋式教育・技術を導入
・活字印刷・官僚制度・兵器工場など、一気に国家を産業化
こうしたことを1800年代前半にやっていたというのが、とにかく早い。そして的確。
ムハンマド=アリーは軍事でもガチ勢。
オスマン帝国に反旗を翻し、1831年〜1839年にかけて本格的な戦争(エジプト・オスマン戦争)を展開。
一時はシリア・パレスチナ・アナトリア(現トルコ)まで支配し、なんと首都イスタンブル目前まで進軍したんです。
ここまでやったなら、もう帝位奪取してもおかしくなさそう。でも、それを阻んだのが当時の国際情勢と「列強の都合」でした。
イギリス・フランス・ロシア・オーストリアなどの列強は、オスマン帝国が崩れると自分たちのバランスが崩れると考え、「ムハンマド=アリーの勢力が強すぎるのはまずい!」と判断。
その結果、1841年にロンドン条約が結ばれ、彼はエジプトとスーダンの世襲支配を認められる代わりに、他の地域を返還することになります。
正式にはスルタンの臣下という立場を維持したものの、実際にはムハンマド=アリー朝はエジプトで王朝のように続いていくことになります。
この王朝は1952年まで続き、エジプト革命で終焉します。
ムハンマド=アリーは、オスマン帝国の中に現れた「超・例外的な地方総督」。
改革、軍事、外交すべてでスルタン以上の実力を発揮し、帝国の“外堀”を埋めるような存在になりました。
まさに、帝国の中にいた“もう一人の皇帝”だったんです。