
「オスマン帝国の兵士って、あんまり“鉄のよろい着てるイメージ”ないなぁ…」って思ったこと、ありませんか?
たしかにヨーロッパの重装騎士みたいなガチガチの全身鎧はあまり使ってなかったんですが、それって「持ってなかった」わけじゃなく、「あえて着なかった」戦術的な選択でもあったんです。
今回はそんなオスマン兵の防具スタイルと、なぜ“軽装”が好まれたのかを詳しく解説していきます!
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結論から言うと、全く鎧を着ていなかったわけではありません。
ただしその使い方やスタイルは、ヨーロッパの重装騎士とはまったく違うものでした。
オスマン軍の主力だったイェニチェリ(火器歩兵)やアキンジ(軽騎兵)は、戦場での素早い移動・速射・包囲戦術が得意分野。
なので防具は動きを妨げない軽装のものが中心でした。
具体的には:
といった、いわば「動きながら守る」スタイルの鎧だったんです。
15世紀以降、オスマン軍は早くから火器(特に火縄銃)を導入していました。
火器の普及で、どんなに硬い鎧を着ていても銃弾一発で致命傷という状況になっていくと、「重くて高いのに、守れない鎧」はコスパが悪いってことで廃れていったんですね。
とはいえ、全員が軽装だったわけではありません。戦術や地形、時代によってしっかり鎧を装備した兵士もちゃんと存在していました。
オスマンの封建騎兵スィパーヒーの中には、胸甲・肩当て・腕甲・レギンスまで装備した重装騎兵タイプもいました。
とくにペルシャ戦線や正面突破が必要な場面では、こうした重装兵が前に出ることも。
また、戦場用ではなく、儀式用・見せ鎧としての豪華な金銀装飾鎧も存在しました。
これらはスルタンや高級軍人の権威を象徴する装備で、美術館級のアート作品のような仕上がり。
今もトプカプ宮殿博物館にいくつか残っています!
ここで少し、オスマンとヨーロッパの鎧の価値観の違いも整理しておきましょう。
オスマン帝国の兵士たちは、「鎧を着なかった」んじゃなくて、「着る必要がなかった/別の戦い方を選んでいた」んです。
素早く動き、遠くから撃ち、包囲して倒す――それが彼らの得意戦法で、重装備より“動ける軽装”が重宝されたというわけ。
だからこそオスマン軍は、あの広大な領土をスピード感ある軍事力で制圧していけたんですね!