ムスタファ1世は何した人?─精神不安により二度退位

ムスタファ1世は何した人?

オスマン皇帝紹介・第15代・第17代スルタン《ムスタファ1世》編です。精神不安のため2度の即位と退位を繰り返し、「狂気のスルタン」とも呼ばれた波乱の生涯。その生涯や死因、性格や逸話、功績や影響を探って行きましょう。

第15代スルタン《ムスタファ1世》とは何した人?
─精神不安により二度退位─

ムスタファ1世(Mustafa I, 1591–1639)
出典:John Young (1755–1825) / Wikimedia Commons Public domain

 

ムスタファ1世の基本情報
在位 1617年~1618年、1622年~1623年
出生 1591年
死去 1639年1月20日
異名 狂気のスルタン(精神疾患とされる)

父:メフメト3世
母:ハンダン・スルタン

兄弟 アフメト1世 ほか
子供 なし(結婚・子の記録なし)
功績 即位中は実質的に摂政政治が行われ、母后や宰相に支えられた統治に。精神的不安定のため2度廃位され、鳥籠制度下の象徴的存在となった。
先代 アフメト1世
次代 オスマン2世(第1次退位後)、ムラト4世(第2次退位後)

 

オスマン帝国の歴代スルタンのなかには、「不遇」とか「悲劇」という言葉がどうしてもついて回る人物もいます。帝国のトップでありながら、本人の意志ではほとんど何もできず、まるで操り人形のように即位と退位を繰り返す──そんな人生を歩んだ皇帝がいました。

 

その人物こそがムスタファ1世(1591頃 - 1639)

 

この記事では、「狂気のスルタン」とも呼ばれたムスタファ1世の波乱に満ちた人生と、彼を取り巻いた政治的思惑、そしてそこから見えてくるオスマン帝国の裏側を、わかりやすくかみ砕いて解説していきます。

 

 

 

生涯と死因

ムスタファ1世の人生は、本人の意志とは無関係に翻弄され続けた、数奇な運命の連続でした。

 

即位と退位を繰り返す

ムスタファ1世は、スルタンメフメト3世の弟であり、アフメト1世の叔父にあたります。兄メフメトの死後、本来なら殺されるはずでしたが、アフメト1世が“兄弟殺し”をやめたことで命を長らえました。

 

1617年、アフメトの死後に年長者優先の原則によってスルタンに即位。しかしその精神状態は不安定だったとされ、宮廷内では「ムスタファは統治能力に欠ける」との声が強まり、わずか1年半で退位させられます。

 

その後1622年、後継者オスマン2世が近衛兵に暗殺された混乱の中で再び即位──ところがまたもや統治はうまくいかず、今度は1623年に再び退位。このように“2度即位して2度退位した”唯一のスルタンとなったわけです。

 

最後は静かな死を迎える

退位後は再び幽閉生活に戻され、1639年に死亡。享年は48歳前後と推定されます。病死とされるものの、晩年の彼はほとんど政治とは無縁の生活を送っていたと見られています。

 

性格と逸話

ムスタファ1世には、“狂気”というレッテルが貼られていますが、その背景には複雑な事情がありました。

 

幽閉生活の影響

ムスタファは若年期のほとんどを、宮殿内のカフェス(鳥籠)で過ごしました。これは皇族同士の争いを避けるための仕組みでしたが、長年の幽閉は精神的な発達に深刻な影響を及ぼしたと考えられています。

 

そのため、彼の即位が決まった際には、すでに感情が不安定で幻覚に悩まされていたという記録もあるほどです。

 

トプカプ宮殿内の“鳥籠(カフェス)”
ムスタファ1世が長く幽閉された、内紛を防ぐために王子(皇子)たちの幽閉施設として使われた隔離区画

出典:Gryffindor / Wikimedia Commons Public domainより

 

政治的に利用された存在

ムスタファ1世の即位は、いずれも有力派閥の都合によるものでした。とくに母后や高官たちが、自分たちの意向で動かせる存在として彼を担ぎ上げたと言われています。

 

実際にムスタファが統治に関与した形跡はほとんどなく、彼自身が「皇帝という役職」そのものに苦しんでいたという逸話さえ残っています。

 

 

功績と影響

ムスタファ1世自身の直接的な功績はほとんどありませんが、彼の存在はオスマン帝国にとって象徴的な意味を持っていました。

 

王位継承制度の混乱

アフメト1世の代で“兄弟殺し”が廃止されたことにより、王位継承のルールは「年長者優先」へと移行。これによってムスタファが即位したわけですが、統治能力に難がある人物でも即位できる制度には多くの問題がありました。

 

その結果、「適任者より年齢順」という制度の見直しが議論されるようになり、のちの選抜主義へのきっかけにもなったのです。

 

「カフェス制度」の影と教訓

ムスタファのように、長期間の幽閉を経て即位する皇子たちは、肉体的・精神的に問題を抱えることが多く、これが帝国の統治力を下げる原因の一つとされました。

 

その教訓から、以後は王子たちに統治経験を積ませるべきだという考え方が徐々に強まっていきます。つまり、ムスタファの悲劇は帝国の制度改革を促す“負の遺産”だったともいえるのです。

 

ムスタファ1世って、表面的には“狂った皇帝”なんて言われがちだけど、その背景には制度や環境の問題があったわけです。本人はただ、生まれと運命に翻弄されただけ──そんな見方をすると、ちょっと胸が痛くなりますよね。