ミドハト憲法とは何か③─大日本帝国憲法の違いと共通点とは?

ミドハト憲法と大日本帝国憲法の違い

このページでは19世紀のオスマン帝国と日本が制定したミドハト憲法と大日本帝国憲法の違いと共通点についてお話しています。両国の近代化の歩みや政治体制の特徴、宗教的背景などを比較することで、それぞれの国家像を理解する手助けとなるでしょう。憲法制定の歴史的意義や政治的な意味合いへの理解を深める助けになれば幸いです。

ミドハト憲法とは何か③─大日本帝国憲法の違いと共通点とは?

ビスマルク憲法(ドイツ帝国憲法、1871年)憲法の最初と最後のページ
ミドハト憲法と大日本帝国憲法、どちらも「立憲体制をとりつつ君主権を温存する」というドイツ帝国憲法の枠組みから大きな影響を受けた。

出典:Bundes‑Gesetzblatt des Deutschen Bundes No. 16 / Wikimedia Commons Public domainより

 

ミドハト憲法(1876年制定)大日本帝国憲法(1889年公布)は、どちらも19世紀の非西洋諸国が“近代化”を目指して制定した重要な憲法です。時期も内容もよく似ているように見えるけれど、その背景や政治的な意味合いにはかなりの違いがあります。
この2つの憲法を並べてみると、単なる「西洋模倣」ではなく、それぞれの国がどう国家像を描こうとしていたかが見えてくるんです。
この記事では、まず両憲法の概要を押さえたうえで、違いと共通点を3つずつ丁寧に比較していきましょう。

 

 

 

両憲法の概要

それぞれの憲法が制定された背景と基本的な特徴を整理しておきましょう。

 

ミドハト憲法とは

ミドハト憲法は、オスマン帝国が1876年に制定した「オスマン帝国初の成文憲法」です。
立案の中心人物が宰相ミドハト・パシャだったことからこの名で呼ばれます。
スルタン(皇帝)の権限を前提としつつも、国会(二院制)や臣民の権利を明文化し、帝国の立憲的近代化を目指しました。ただし制定からわずか2年後に停止され、長らく有名無実となりました。

 

大日本帝国憲法とは

大日本帝国憲法は、明治政府が1889年に発布した、日本で最初の近代的な憲法です。
ドイツのプロイセン憲法を参考に、天皇主権を基本にしつつ、臣民の権利や帝国議会の設置なども定められました。
実際の政治運用でも長らく効力をもち、戦後の日本国憲法(1947年)に引き継がれるまでの間、日本の統治の基本となりました。

 

両憲法の違い

両国の目指した「近代国家」のモデルが異なるぶん、憲法に込められた思想にも違いがにじみます。

 

①立憲主義の本気度

ミドハト憲法は、欧米列強に対する帝国の近代性のアピールという側面が強く、立憲主義を貫く意思は限定的でした。
制定わずか2年で停止されたことからも、本気で国制改革を進めようとしたわけではなかったとも言えます。
それに対して大日本帝国憲法は、統治システムとして機能し続けたという点で、制度的持続性がありました。

 

②議会と皇帝(天皇)の関係

ミドハト憲法では、スルタンが絶対的な権限を保持しており、議会はその下に置かれるかたちでした。
しかもスルタンには議会を自由に解散・停止できる権限があり、実質的には「お飾り議会」に近かったんですね。
一方で大日本帝国憲法も天皇主権でしたが、議会(衆議院・貴族院)には予算審議などの実権があり、相対的に機能していました。

 

③宗教的要素の扱い

オスマン帝国ではイスラームが国家宗教であり、ミドハト憲法もその前提に立っていました。
スルタンはカリフ(イスラーム世界の宗教的指導者)でもあったため、政教分離とは無縁でした。
これに対して大日本帝国憲法では、国家神道が実質的な“精神的支柱”でありながらも、文面上は宗教の自由も認めるかたちをとっていました。

 

 

両憲法の共通点

違いが際立つ一方で、両者には「非西欧国家による近代化の苦心」という共通する要素もありました。

 

①西洋列強への対抗意識

両憲法とも、欧米列強から「文明国」と認められることを意識して作られました。
オスマン帝国では「東方問題」として欧州列強の干渉を避けるため、日本では不平等条約改正の条件整備として、それぞれ近代国家を装う必要があったわけです。

 

②天皇(皇帝)主権の維持

どちらも「立憲君主制」としながら、実際には君主主権型である点が共通しています。
つまり、議会や国民の権利があるとはいえ、あくまで「皇帝・天皇の許可があって初めて機能する」かたちだったんです。

 

③ドイツ憲法の影響

ミドハト憲法は一部でプロイセン憲法の要素を参考にし、大日本帝国憲法はさらに明確にそれをモデルとしました。
「権力を国民に渡しすぎない」プロイセン型の君主制を参考にしたという点で、両国ともに“慎重な近代化”を目指していたといえるでしょう。

 

まとめ:両憲法の比較表

比較項目 ミドハト憲法(1876年) 大日本帝国憲法(1889年)
制定目的 欧米列強への近代国家アピール 不平等条約改正の前提整備
君主の立場 スルタンが主権を持ち、議会の上位に立つ 天皇が統治権を総攬、主権者として君臨
議会制度 二院制だがスルタンが自由に解散・停止可能 衆議院と貴族院で構成、一定の立法・予算権あり
国民の権利 臣民の権利を条文に記載するも保障は限定的 臣民の権利を明記、ただし法律の範囲内での制限つき
宗教との関係 国家宗教はイスラーム、カリフ制との結びつき強い 国家神道を実質的基盤としつつ宗教自由を謳う
参考にしたモデル フランス・プロイセンの憲法を折衷 明確にプロイセン憲法を模範とする
実効性 2年で停止され、長期にわたり無効化 実際に50年以上運用され、統治体制の中核に

 

ミドハト憲法と大日本帝国憲法は、どちらも「君主の権威を保ちつつ近代国家を装う」という試みでした。表向きは似ていても、その背景や政治的な実効性には大きな差があったのです。