ミドハト憲法と大日本帝国憲法の違いと共通点

19世紀後半、オスマン帝国と日本というまったく違う文化圏の二大帝国が、ほぼ同時期に「近代国家化」のための憲法を作ろうと動き始めます。
オスマンはミドハト憲法(1876年)、日本は大日本帝国憲法(1889年)
時代も目的も似てるけど、内容には意外と違いがあるんです。
今回はこの2つの憲法の共通点と違いを、制度・思想・運用面に分けてわかりやすく整理してみましょう!

 

 

ミドハト憲法と大日本帝国憲法の比較表

比較項目 ミドハト憲法 大日本帝国憲法
制定年 1876年 1889年(明治22年)
起草の中心人物 ミドハト・パシャ(近代改革派官僚) 伊藤博文(ドイツ法を参考)
施行国家体制 オスマン帝国(スルタン制) 日本(天皇制)
君主の地位 スルタンは憲法により制限されるが、依然強大 天皇は神聖不可侵であり統治権の総攬者
議会制度 上下両院制(民選ではなく一部任命) 貴族院・衆議院(衆議院のみ選挙制)
市民の権利 法の下の平等、信教の自由を明記 臣民の権利は法律の範囲内で保障される(制限付き)
西洋憲法との関係 主にフランスとベルギーの憲法を参照 主にプロイセン(ドイツ帝国)憲法を参照
実効性 制定直後に停止(1878年)、1908年再施行 1947年の日本国憲法まで存続
歴史的意義 イスラム世界初の近代憲法 アジアで初の持続的近代憲法体制
運命 アブデュルハミト2世によって停止される(専制回帰) 第二次世界大戦後、GHQによって廃止・改正

 

共通点:どちらも「上からの近代化」だった

まずはこの2つに通じる似ているポイントから見てみましょう。

 

① 君主制を前提とした「立憲君主制」

  • 君主が憲法を「与える」(欽定憲法)形式
  • 議会は設けるが、君主が議会解散権・軍統帥権・法令公布権を保有
 

どちらも君主の権威を維持したまま、近代化を進めるというスタンス。
ミドハト憲法ではスルタン、大日本帝国憲法では天皇元首であり、憲法の上に立つ存在とされていました。

 

② 外圧に対応するための近代化

  • オスマン帝国:欧米列強に「非ムスリム差別してません」とアピール
  • 日本:西洋の不平等条約撤廃の交渉材料として
 

オスマン帝国も日本も、ともに列強からの圧力や干渉にさらされていました。
そのため憲法をつくるのも「自分たちは“文明国”ですよ」という外交的ポーズの意味も強かったんです。

 

③ 議会制度の導入

両国とも上下二院制の議会を導入しました。
ただし議会の権限は限定的で、最終的な決定権は君主にあるという前提でした。

 

違い①:憲法の起草者と思想的バックボーン

憲法の中身には、思想的な違いが色濃く出ています。

 

オスマン帝国(ミドハト憲法)

  • 起草者:ミドハト・パシャら自由主義的な官僚たち
  • 背景思想:イスラームと近代の融合を目指す
  • 参考モデル:フランス憲法やベルギー憲法など、自由主義的色合いが強い

 

日本(大日本帝国憲法)

  • 起草者:伊藤博文と法制官僚たち
  • 背景思想:天皇中心の国家観を強く打ち出す
  • 参考モデル:プロイセン(ドイツ)憲法に強く依拠し、君主の権限をしっかり保障

 

違い②:国民の権利保障に対するスタンス

どちらも国民の権利に触れてはいますが、その“ニュアンス”には違いがあります。

 

ミドハト憲法:

  • すべての臣民に宗教・人種を問わず法の下の平等を明記
  • 信仰の自由、言論の自由もある程度保障
  • 非ムスリム住民にも政治参加の道を開いた

 

大日本帝国憲法:

  • 国民の権利は「法律の範囲内で」認められるという制限付き
  • 信教・言論の自由は天皇の統治権と矛盾しない限りでのみ許容
  • 臣民としての忠誠義務が強調される

 

違い③:運用と“その後”の命運

最後に、それぞれの憲法がどう使われたのか、そしてどんな結末を迎えたのかにも注目してみましょう。

 

ミドハト憲法:

  • 発布:1876年
  • わずか2年で停止(1878年)、スルタンが専制に逆戻り
  • 1908年の青年トルコ革命で再施行されるも、政局混乱により短命
  • 実質的には象徴的な試みで終わったと言える

 

大日本帝国憲法:

  • 発布:1889年、施行:1890年
  • その後約57年間存続し、帝国の国家体制の基盤に
  • 太平洋戦争の敗戦を経て、1947年に日本国憲法に全面改正

 

ミドハト憲法と大日本帝国憲法は、どちらも「君主制を残しながらの近代化」を目指した点で共通していました。
でも実際の運用や、国民の位置づけ、思想的なベースは大きく異なります。
前者は理想が先行して頓挫し、後者は現実政治の中で長く機能したという点が、ふたつの憲法の対照的な歴史を物語っているんですね。