オスマン帝国の通貨の種類と歴史

オスマン帝国って、軍事や政治の話ばかり注目されがちですが、実は通貨制度も超重要なテーマなんです。
というのも、帝国の支配力や経済の安定は、何を隠そうちゃんとしたお金=信頼される通貨に支えられていたから。
時代ごとに通貨の種類や金属の質がどう変わったのか? それがどんな意味を持っていたのか?
ここでは、オスマン帝国の通貨の移り変わりと、その背景をわかりやすく紹介していきます!

 

 

オスマン帝国初期の通貨事情はどうだった?

帝国が建国された14世紀末、まだまだ経済は地域レベルで動いていました。
とはいえ、それでも独自の通貨を発行し始めるのは早く、「自分たちの国家だぞ!」というアピールにもつながっていたんです。

 

最初に発行されたのは銀貨「アクチェ」

オスマン最初の本格通貨とされるのが、オルハン・ベイ(在位1324〜1362)時代に鋳造されたアクチェ(Akçe)。 これは純銀製の小さなコインで、長らくオスマン経済の基本単位として使われ続けました。

 

ただしこの頃は、周辺のビザンツやセルジュークの通貨と混ざって使われていた時代でもあり、通貨の統一性はまだゆるやかなものでした。

 

金貨はなかったの?

この時期、金貨は鋳造されていませんでした。 というのも金は非常に貴重で、他国(特にヴェネツィアやイタリア商人)が発行する金貨がそのまま流通していたんです。
つまり、金貨経済は国際貿易の通貨として他国に頼っていたわけですね。

 

スレイマン大帝の時代に“通貨改革”が進む

オスマン帝国の黄金時代を築いたスレイマン1世(在位1520〜1566)の時代になると、通貨制度もより本格的に国家主導で整えられていきます

 

金貨「スルタンニ」登場!

1477年ごろ、メフメト2世の時代から金貨「スルタンニ(Sultani)」が登場し、スレイマン期にはより安定的に流通。
この金貨はヨーロッパのドゥカート金貨(特にヴェネツィア)を手本にしていて、重さや純度もかなり精巧でした。
これによって、オスマン帝国もようやく金貨・銀貨の両輪で経済を運営できるようになったんです。

 

通貨の統一と鋳造所の整備

この時代には帝国内に複数の造幣局(ダルプハーネ)が設置され、貨幣鋳造が国家の管理下に置かれました。
その目的は質の維持と統一性の確保。つまり「どこで使っても信頼できる通貨」を目指していたわけです。

 

近世になると、通貨の価値が揺らぎ始める

17世紀以降、戦争の多発や財政難、銀の流通量の変化によって通貨の価値が安定しなくなっていきます

 

アクチェの銀含有量がどんどん下がる

財政が苦しくなると、「金属の質を落としてでも貨幣をたくさん作る」というインフレ政策に手を出してしまう。
これによりアクチェの実質価値が急落し、市場では実物との交換価値が信用されなくなるという事態に。

 

複数通貨が混在するカオス状態に

帝国後期になると

 

  • 自国通貨(銀貨・金貨)
  • 外国通貨(ヨーロッパのターラー銀貨など)
  • 紙幣(後述)

 

が入り混じって流通し、商人や農民にとっても不便で不安定な状況が続きました。

 

19世紀に紙幣「カイメ」が登場!

近代化と財政危機の狭間で、ついにオスマン帝国も紙幣経済に踏み出します。

 

初の紙幣「カイメ(Kaime)」の発行

1840年、アブデュルメジト1世の時代に発行されたのが、オスマン帝国初の紙幣カイメです。
当初は政府保証付きの金兌換紙幣でしたが、戦費の増加と財政の悪化によりどんどん増刷されインフレを招いていきます。

 

通貨制度も列強に管理されるように

1875年の財政破綻後は、国際債権団が通貨政策にまで介入
1890年代には、ヨーロッパの金融制度に倣って「オスマン帝国中央銀行」も設立されましたが、ここもまたフランス資本主導で、国家主権とは言えない運営体制でした。

 

まとめ:オスマンの通貨史は「信用との戦い」だった

通貨って、ただのお金じゃなくて国家の信用そのものなんです。
オスマン帝国も、強かった時代には金貨や銀貨で経済を支え、国の顔として通貨を誇っていました。
でも、時代が進むと信用はどんどん崩れ、質の悪い銀貨、乱発された紙幣、列強による管理が通貨を弱らせていったんですね。

 

オスマン帝国の通貨制度は、銀貨「アクチェ」から始まり、金貨「スルタンニ」、そして紙幣「カイメ」へと進化していきました。
でもその歩みは、帝国の栄光と没落とを映し出す「経済の鏡」のようなもので、最終的には国家の信用が通貨とともに崩れていくという歴史でもあったんです。