
16世紀から18世紀にかけて、オスマン帝国とサファヴィー朝(ペルシア)は何度もぶつかっています。
地図で見ると隣同士の大国なんですが、ただの“お隣さんケンカ”じゃなくて、宗教・政治・領土をめぐるガチンコ勝負だったんです。
以下で、両者の主な戦争とその背景、結果を時代順にまとめてみましょう!
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オスマン帝国とサファヴィー朝は、地理的に近かっただけじゃなくて、国の成り立ちや信じる宗教の部分でもかなり違ってたんです。
その違いが、両国の対立に火をつけました。
同じイスラム教国家とはいっても、オスマン帝国はスンナ派、サファヴィー朝はシーア派。 立場がまったく違っていて、互いに「相手のやり方は間違ってる」と思ってました。
オスマンからすると、シーア派を国家宗教にしたサファヴィー朝は“異端”に見えたんですね。
政治的にも、両者がぶつかりやすい中東・カフカス・メソポタミアあたりの地域は、どっちにとっても大事な場所。
ここを巡って、たびたび「うちの領土だ!」と衝突することになります。
両国は16世紀以降、何度も戦争をしています。中でも重要な戦争をピックアップして、その背景と結果を紹介しますね。
これは両国が初めて本格的にぶつかった戦い。
スルタン・セリム1世率いるオスマン軍と、シャー・イスマーイール1世率いるサファヴィー軍がぶつかりました。
この勝利で、オスマンは一気に東方への影響力を拡大します。サファヴィー側は火器の導入が遅れていたことが敗因でした。
スレイマン1世(スレイマン大帝)が主導した遠征。
サファヴィー朝にとって重要だったバグダードを狙いました。
この戦いのあと、オスマン帝国がペルシア湾方面にまで影響を及ぼすようになります。
これが両者の争いの決着戦とも言える長期戦。
オスマンではムラト4世が登場し、若くして出陣したことで話題になりました。
この戦争を最後に、オスマンとサファヴィーはしばらく軍事衝突をやめて、それぞれ国内の安定に力を入れていくようになります。
オスマン帝国とサファヴィー朝の戦いは、一時的な領土のやり取りだけじゃなく、もっと根っこの部分――宗教・文化・国家のかたちにまで影響を与えたんです。
この争いを通して、スンナ派オスマンとシーア派サファヴィーの立場の違いは、完全に固まりました。
宗教の違いが国の境界にもなり、その名残は今のトルコ・イラン関係にも影を落としています。
争ってばかりのように見えるけど、文化面では実は書道・建築・学問などで影響し合っていた面もあります。
サファヴィー朝の美術様式がオスマンにも伝わったり、逆にオスマンの軍事制度がペルシア側に研究されたり…。
ライバルだからこそ、お互いを意識して高め合っていたとも言えるんですね。
オスマン帝国とサファヴィー朝の戦いは、宗教・領土・政治が複雑に絡んだ、長くて深い争いでした。
でもそれは、単なる“戦争の歴史”じゃなく、宗派の境界線や国際関係、そして文化交流にもつながる大きな歴史のうねりだったんです。
このライバル関係が、今のトルコとイランの歴史的背景を形作っていることを忘れないでおきたいですね。