
オスマン帝国の近代化を語るうえで欠かせないのが、1839年のギュルハネ勅令と、1876年のミドハト憲法。どちらも西欧的な制度を取り入れて帝国を立て直そうとした改革の目玉ですが、実はこのふたつ、性格も目的もまったく異なるんです。
今回は、ギュルハネ勅令とミドハト憲法の違いをしっかり整理しながら、最後に比較表で一気にまとめてみましょう!
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ギュルハネ勅令(1839年)は、スルタン・アブデュルメジト1世によって発布された近代改革のスタートを切る宣言です。
これは国家の方向性をガラッと変えるための“理念”を示したもので、まだ具体的な制度は伴っていません。
勅令の中で掲げられたのは
といった基本方針。
イスラーム国家として続いてきた体制を、一つの近代的“国民国家”に再編しようという大きな理想が込められていました。
ミドハト憲法(1876年)は、オスマン帝国初の近代的成文憲法で、ここから本格的な立憲君主制が始まります。起草したのは自由主義派の重臣ミドハト・パシャ。
この憲法では
など、国家の運営そのものが法の枠組みで定められました。
つまり、ギュルハネ勅令が「変わります!」という宣言だったのに対して、ミドハト憲法は「これが新しいルールです」という完成形の法的枠組みだったわけです。
両者は時代も背景も違いますが、共通して帝国の延命を目的としていました。ただし、改革の「深さ」と「制度化の度合い」がまるで違うんです。
こう比較すると、後者のほうが、より先進的かつリスクの高い改革だったと言えます。
項目 | ギュルハネ勅令 | ミドハト憲法 |
---|---|---|
発布年 | 1839年 | 1876年 |
発布者 | スルタン・アブデュルメジト1世 | スルタン・アブデュルハミト2世(実務はミドハト・パシャ) |
性格 | 近代化の基本理念を宣言 | 国家の制度化と憲法秩序の確立 |
主な内容 | 生命・財産・名誉の保障、課税・徴兵の公平化、法の下の平等 | 議会設置、権利保障、スルタンの権限規定、法治主義の導入 |
宗教との関係 | イスラーム国家内での世俗原則の導入 | 宗教に依存しない立憲的制度を明確化 |
持続性 | その後のタンジマートに継承される | 2年で停止され、1908年に再施行 |
ギュルハネ勅令はオスマン帝国が「近代化するぞ」と世界に宣言したスタート地点、ミドハト憲法はその宣言を“国家の形”として法制度化したゴールに近いものでした。
どちらも帝国の命運をかけた改革でしたが、理想と現実のギャップに苦しみ、長続きしなかったのが現実。
それでも、このふたつの試みが後のトルコ共和国へとつながる、大きな“政治の種まき”になったのは間違いありません。