オスマン帝国のアラビア半島進出と聖地管理権をめぐる対立激化

オスマン帝国がアラビア半島に進出したのは、単なる領土拡大のためじゃなかったんです。
その核心にはイスラームの二大聖地「メッカ」と「メディナ」の管理権、つまり宗教的正統性をめぐる強い思惑がありました。
でも、この「聖地支配」は一枚岩ではなく、地元の豪族や宗教勢力とのバチバチの対立も引き起こすんです。
今回は、オスマン帝国のアラビア半島進出の背景、聖地管理権の獲得、そして対立がどう激化していったのかを見ていきましょう!

 

 

オスマン帝国がアラビア半島に目を向けた理由

15~16世紀のオスマン帝国は、拡大するイスラーム世界の主導権を握ろうとしていました。
その中でも「メッカ・メディナの管理」=イスラーム世界の正統リーダーとしての資格を得ることが最重要だったんです。

 

マムルーク朝との争いと“聖地奪取”

聖地管理権を長年握っていたのは、エジプトを拠点とするマムルーク朝
ところが1517年、スルタン・セリム1世がマムルーク朝を撃破してカイロを占領すると、メッカとメディナもオスマンの宗主権下に入ることになります。

 

これによって、オスマン皇帝は「ハリーファ(カリフ)」としての立場を公式に手に入れ、以後、オスマン帝国はイスラーム世界の守護者を自称するようになるんですね。

 

ヒジャーズ地方のシャリーフとの関係

でも、メッカの地元を治めていたのは、預言者ムハンマドの血統をひくシャリーフ家(ハーシム家)という一族。
彼らは形式的にはオスマンの支配下に入ったものの、実際の支配権はゆるやかで、独立性が強かったんです。

 

聖地管理をめぐる名誉と負担

聖地の管理って聞くと栄誉ある任務のように思えますが、実際には巨額の財政支出と緻密な政治バランスが必要でした。

 

ハジ巡礼の安全確保=軍事任務

毎年、世界中のムスリムがメッカ巡礼(ハッジ)に訪れますが、彼らの巡礼路の安全保障水・食料・宿泊の確保を行うのはオスマン帝国の責任でした。
特に荒くれベドウィン部族による隊商襲撃が問題で、護衛軍の派遣や道路の整備などが必要だったんです。

 

スルタンの威信としての“ヒラーファ(カリフ制)”

スルタンが聖地の守護者であることは、イスラーム世界への外交カードでもありました。
だからこそ、メッカとメディナの管理は、単なる行政以上に宗教的正統性の源でもあったんです。

 

ワッハーブ派との衝突――「宗教の正しさ」をめぐる戦争

18世紀後半、ここでオスマンの聖地支配を根本から否定する宗教運動が登場します。それがワッハーブ派です。

 

サウード家+ワッハーブ派の“聖地侵攻”

アラビア半島の中部(ナジュド地方)で勢力を伸ばしたサウード家と、イスラームの厳格な教えを主張するムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブが結びつくことで、オスマンの聖地支配を“異端の支配”と見なす運動が拡大。
1803年にはなんと、ワッハーブ派がメッカ・メディナを占領してしまいます。

 

ムハンマド・アリーの反撃で奪還

これに対し、オスマン帝国はエジプトの総督ムハンマド・アリーに討伐を命令。
息子イブラーヒーム・パシャの遠征によって、1813年ごろには聖地を奪還することに成功します。
でもこの事件以降、聖地支配の正統性に揺らぎが生まれ、オスマンの弱体化を象徴する出来事にもなってしまうんですね。

 

第一次世界大戦でついに失う

19世紀後半にはオスマンの聖地支配は名目的になり、1916年のアラブ反乱をきっかけに、メッカのシャリーフ・フサインが独立を宣言
これによって、オスマン帝国はメッカ・メディナを含むアラビア半島の支配権を完全に失うことになります。

 

オスマン帝国のアラビア半島進出と聖地管理は、「イスラーム世界の中心であるために必要な誇り」でもありました。
でも実際には、地元豪族・宗教運動・列強の思惑が絡み合い、その誇りを守るのは過酷な試練だったんです。
聖地をめぐる支配のゆくえは、まさに帝国の栄光と衰退を象徴する鏡だったといえるでしょう。