
オスマン帝国の歴史って、戦争のイメージが強いかもしれませんが、戦いがあれば当然、条約もついてきますよね。むしろこの帝国、軍事力で押して外交で固めるのが超得意だったんです。
オスマン帝国が600年以上も続いたのは、力ずくじゃなくて、ちゃんと交渉のテーブルでも存在感を発揮していたから。
この記事では、そんなオスマン帝国が結んだ主要な条約を時代順に紹介していきます!「勢いあるときは有利条約」「衰退期には不平等条約」っていう流れにも注目です。
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この時代の条約は、オスマン側が有利な条件で結ぶものが中心です。特にヨーロッパ諸国との“初めての国際外交”が始まるタイミングでもありました。
ポーランド王ヴワディスワフ3世がオスマン帝国(ムラト2世)と結んだ条約。キリスト教勢力との和平を一度結ぶも、十字軍側の違反で「ヴァルナの戦い」に発展し、オスマン勝利。条約は反故になりました。
スレイマン1世がフランソワ1世に認めた特権条約。 フランス商人がオスマン帝国内で自由に商売できる代わりに、フランスはオスマンと対スペイン同盟を組むという内容。この通商特権がのちの「不平等条約」の原型になります。
この時代の条約は、バルカン・中東・黒海周辺の利権をめぐる調整型の外交が目立ちます。敗戦も増えてきて、オスマン帝国が「全部自分のペース」というわけにはいかなくなっていきます。
大トルコ戦争の敗戦により、オーストリア・ヴェネツィア・ポーランドに大幅に領土を割譲。ハンガリーの大半を失ったことで、「オスマン帝国の後退」が世界に明確になった転機。
カルロヴィッツ条約に続き、オーストリアと再び和平を結ぶ。セルビア北部がオーストリア領に。ヨーロッパ列強に対して“押され気味”になってきた時期です。
露土戦争の結果、ロシアにクリミア・黒海への通行権・正教徒保護権を認めた屈辱的な条約。 オスマン帝国がロシアの“裏口から干渉”されるきっかけになったとも言われます。
近代になると、もはや「対等な国際交渉」ではなく、列強による圧力の下で結ばされた条約が中心になります。その内容は、税制、通商、領土、内政にまでおよび、帝国の独立性はどんどん削られていきます。
イギリスとの間で結ばれた通商条約。オスマン側は関税の引き上げが制限され、イギリス商人に大幅な特権を認めたことで、経済的な主権が事実上失われていく転機に。
露土戦争後、ロシアの南下政策に対抗して英・独・墺が主導して結ばれた多国間条約。オスマン帝国はボスニアを事実上オーストリアに奪われ、バルカンの勢力圏を大きく縮小しました。
第一次世界大戦敗北後、連合国が課した屈辱的な講和条約。アナトリア東部をアルメニア、南部をフランス、メソポタミアをイギリス、アラビア半島は独立化…と、帝国の解体図そのものでした。
ただしこれはムスタファ・ケマルらの反発で実現せず、最終的にはローザンヌ条約へと移行します。
トルコ共和国成立後、列強と改めて締結された講和条約。セーヴル条約を白紙に戻し、現在のトルコ領を国際的に承認させた、いわば「オスマン帝国の最終章」を締めくくる条約です。
オスマン帝国が結んできた条約を時系列で見ると、力があるうちは「主導する側」、衰えると「譲歩させられる側」という、歴史の厳しさが見えてきます。
でもその中でも、オスマンはうまくバランスを取りながら、何百年も国を保ち続けてきた――
だからこそ、条約を通じてその“交渉術のしたたかさ”にも注目してみてほしいんです。