
オスマン帝国って、絶対君主制のイメージが強いですよね。
でも実は、スルタンの言葉が“何でもアリ”だった時代から、法や制度に基づいた統治へと少しずつシフトしていったんです。
その流れの中で生まれたのが、さまざまな勅令(フィルマン)や、近代化の過程で登場した憲法(カーヌーン)たち。
この記事では、オスマン帝国の歴史を彩った代表的な勅令と憲法を時代順に紹介しながら、その背景と影響をわかりやすく整理していきます!
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初期のオスマン帝国では、イスラム法(シャリーア)とスルタンの命令(カーヌーン)が並存していました。 特に法整備を進めたのが、あの“壮麗王”スレイマン1世です。
スレイマン1世(在位1520〜1566)が制定したオスマン帝国の世俗法の集大成です。
その内容は:
といったもの。この法典により、スレイマンは“法の整備者”カーヌーニー(法律王)の異名を得ました。
スルタンの個人的命令で発せられる「フィルマン」は、地方行政や官僚人事、商人への特権、宗教関係の命令などで多用されました。
例えば、特定の宗教共同体に自治権を与える、ある都市に新たな税制を導入するなどですね。これらは記録として残され、行政の中でも重要な文書とされていました。
19世紀に入ると、オスマン帝国は欧米列強に対抗するため、近代国家としての制度整備を急ぎます。その流れの中で、「改革勅令」や「基本法」が登場してきます。
アブデュルメジト1世が発布した近代改革の出発点とも言える勅令。
そのポイントは:
これにより「タンジマート(恩恵の時代)」と呼ばれる改革期が始まります。
クリミア戦争後、列強との約束のもとで発布された勅令。
特徴としては:
これはヨーロッパの影響が色濃く反映された条文化で、まさに“オスマン近代憲法”の先駆けでした。
ヨーロッパでは19世紀に立憲国家化が進む中、オスマン帝国でもついに「憲法」が誕生します。
とはいえ、すんなりいったわけじゃなく、制定→停止→復活→帝国崩壊、というドラマがあったんです。
スルタン・アブデュルハミト2世の時代に公布された帝国初の成文憲法。
その主な内容は:
ただし、翌1878年に露土戦争が勃発すると、スルタンが憲法を停止し、再び専制政治に逆戻りします。
青年トルコ人革命によってアブデュルハミト2世が押され、憲法が30年ぶりに復活。議会が再開し、政党が誕生、近代的な政体へと向かっていきます。この流れは最終的にトルコ共和国の成立(1923)へとつながるわけです。
オスマン帝国の法制度の歴史は、単なる“古い帝国のルール”じゃありません。
宗教法・慣習法・勅令・近代憲法が共存・衝突しながら、600年にわたって少しずつ進化していった姿なんです。
絶対君主制から立憲制への道のりは、まさに“帝国が近代と向き合ったドラマ”だったと言えるでしょう。