
「イスラム帝国」=イスラム教しかダメだったの?と思いがちですが、オスマン帝国はそんなに単純じゃないんです。
たしかに国家の中核はスンナ派イスラムでしたが、それ以外の宗教にも意外なほど寛容な面がありました。
というのも、この帝国は多民族・多宗教の寄せ集めみたいなところがあって、信仰の多様性を受け入れないと国がまとまらなかったんですね。
この記事では、そんなオスマン帝国で実際に認められていた宗教の種類を、「イスラム教内部の違い」「キリスト教各派」「ユダヤ教」などに分けて紹介します!
|
|
まずは「国教」としてのイスラム教について見ていきましょう。オスマン帝国はスンナ派イスラムを正統としましたが、それ以外の流派も実は存在し、地域によって共存していました。
オスマン帝国の政治・法律・軍事・教育の中心にあったのがこのスンナ派。 特にハナフィー学派が採用され、法制度のベースとなっていました。
スルタンは16世紀以降、イスラム世界の「カリフ」として宗教的リーダーを自称するようになります。
オスマンの敵対勢力であるサファヴィー朝(現イラン)がシーア派の中心だったこともあり、オスマン国内のシーア派(特にアレヴィー派)は、ときに警戒対象となりました。
それでも完全に排除されたわけではなく、バルカンやアナトリア東部では地域単位で存在が容認されていました。
イスラムの神秘主義であるスーフィズムも広く支持されていました。
特にメヴレヴィー教団(旋回舞踊で有名)は、宮廷とのつながりも深く、文化的にも大きな影響を与えました。
オスマン帝国はキリスト教徒の信仰も基本的に認めていました。
ただし「異教徒(ズィンミー)」としての身分に置かれ、人頭税(ジズヤ)を納める代わりに保護されるという仕組みです。
最大のキリスト教徒集団。バルカン半島や小アジア西部に多く、コンスタンティノープル総主教の権限が特に強かったです。
オスマン皇帝はこの教会を「ギリシャ人(ルーム人)の宗教代表」として制度化し、共同体(ミッレト)単位で自治を認めました。
アルメニア人の伝統的な教派。オスマン領内ではアルメニア・ミッレトとして公認され、司教(パトリアーク)を通じて独自の教育・婚姻・裁判が可能でした。
西欧との関係で特に増えていったのがこの2つ。
とくにフランスとの通商条約(カピチュレーション)でカトリック保護が進み、フランス領事がカトリック信徒の保護者になるような事例も。
プロテスタントは少数派でしたが、19世紀には宣教師の活動などでバルカン地方に一定の拡大を見せます。
スペインでの追放(1492年)を受けて、オスマン帝国は大量のセファルディム系ユダヤ人を受け入れました。
これが当時としては異例の寛容政策であり、イスタンブールやサロニカには活気あるユダヤ人社会が生まれました。
主にスペインからの移民。ラディーノ語(スペイン語の方言)を話し、商業や医療で活躍しました。
東欧系ユダヤ人。オスマン領のルーマニアやハンガリー南部などに居住していました。
これらのユダヤ人も独自のミッレト制度で教育・礼拝・司法を運営し、宮廷に出入りする医師や通訳も多数いました。
オスマン帝国では、「スルタン=イスラムの守護者」でありながら、異教徒にも生きる場所を残すという統治スタイルが取られていました。
それは「信仰の自由」というよりも、多様な帝国をまとめ上げるための合理的な制度だったのかもしれません。
でもそのおかげで、オスマンは600年も続いた多宗教国家として、歴史にその名を残すことができたんですね。