
オスマン帝国の歴史は、まさに「戦争の歴史」と言っても過言じゃありません。
建国から滅亡まで600年以上のあいだ、オスマン帝国は常にどこかで戦っていた帝国でした。
領土を広げるための侵略戦争から、宗教対立・列強との衝突・反乱鎮圧まで、戦争の形も相手も多種多様。
この記事では、そんなオスマン帝国が関わった主要な戦争を時代順に一覧形式でご紹介します!
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オスマン帝国のはじまりは、小さな侯国がまわりの敵と戦いながら成長していくという、とても地道な道のりでした。
最初の頃は主にビザンツ帝国やアナトリア内のライバル勢力とぶつかり合いながら、次第に「帝国」と呼ばれる規模へと拡大していきます。
そしてついに1453年、ある“歴史を変える戦争”で、世界の注目を一身に集めることになるんです。
初代オスマン1世がビザンツ帝国の軍勢を撃破。これがオスマン軍としての“初勝利”で、ここから独立国家としての道を歩み始めます。
バヤズィト1世が率いるオスマン軍が、十字軍を構成するヨーロッパの連合軍に大勝利。
この戦いで「オスマン帝国=ヨーロッパの脅威」として一気に認識されるようになりました。
中央アジアから西進してきたティムール(ティムール帝国)との一騎打ちで、オスマン側が惨敗。
バヤズィト1世が捕虜になり、帝国内で継承争い(内乱時代)が勃発。帝国崩壊の危機を迎えます。
メフメト2世がビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略。
東ローマ帝国の滅亡と、イスタンブール時代の幕開けを告げる大事件であり、ここから“真のオスマン帝国”が始まります。
この時代はまさにオスマン帝国の“最盛期”。バルカンから中東、北アフリカ、さらに地中海まで勢力を拡大し、ヨーロッパの列強と真っ向勝負を繰り広げていきます。
軍事、外交、文化、すべてが調和した時代で、数々の戦争で「世界帝国」としての存在感を証明していきました。
東のサファヴィー朝(シーア派)と激突し、セリム1世が決定的勝利。アナトリア東部の支配を確立し、宗教対立を背景にした対イラン戦争が始まります。
マムルーク朝を破ってシリアを併合。さらに翌年にはエジプトも制圧し、イスラム聖地メッカとメディナを支配下に置いたことで、宗教的正統性が急上昇。
スレイマン1世がハンガリー王国を粉砕。これによりハンガリーはほぼオスマンの支配下となり、中央ヨーロッパへの道が開かれます。
モハーチの勝利に続き、オスマン軍がウィーンに迫るも、ここでは敗退。
この戦いがヨーロッパ列強による「反オスマン連合」結成のきっかけに。
海ではバルバロス・ハイレッディンが大活躍!スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊を撃破し、地中海の覇者となります。
しかしその後、オスマン海軍はキリスト教連合艦隊に敗北。
それでも帝国の基盤が大きく揺らぐことはなく、陸上ではまだまだ優勢が続きました。
再びウィーンに挑むも、ここで大敗。“オスマン帝国の限界”が明確になったターニングポイントです。
この戦い以降、帝国は防戦一方となり、衰退の坂道を転がり始めます。
ウィーンの敗北以降、オスマン帝国は少しずつ領土を失い、バルカン半島の民族運動や列強の侵略に苦しむようになります。
軍事面でも技術で後れを取り、国際政治でも圧力を受け、ついには第一次世界大戦で敗れて歴史の幕を閉じることに。
第二次ウィーン包囲の敗北後、神聖ローマ帝国・ポーランド・ロシアなどとの連戦に突入。
カルロヴィッツ条約でハンガリーやスラヴ地方を一気に失い、帝国の縮小が始まります。
ロシアとの大戦争。敗北し、クリミア半島を失うと同時に、宗教保護権や外交権までロシアに奪われてしまいます。
ギリシャが独立運動を起こし、最終的にロシア・イギリス・フランスの支援で独立を達成。
この戦争は「民族自決」の流れを帝国内に波及させるきっかけに。
一応、イギリス・フランスと組んでロシアに勝利するも、財政難と軍備の限界が露呈。
「もう勝っても得しない」状況が目立ち始めます。
またもロシアと全面戦争。バルカンの諸国が相次いで独立し、ベルリン条約でさらなる領土喪失へ。
第一次・第二次ともに敗北。オスマン帝国はヨーロッパでの領土をほぼすべて失い、“アジアの帝国”へと後退します。
ドイツ側について参戦するも敗北。戦後、連合国によって分割が進み、1922年にスルタン制が廃止されて帝国は正式に終焉。
オスマン帝国の戦争は、ただの“勝ち負け”じゃなく、世界の動きとがっちり連動していました。
中東・バルカン・地中海という重要すぎる立地にあったからこそ、戦争のたびに帝国の形も、世界の秩序も変わっていったんです。
まさに、「戦争を通して見る帝国史」っていうのが、オスマン帝国の醍醐味なんですね。