
オスマン帝国の歴史は、1299年から1922年までの約600年にわたって続いた超ロングランの帝国物語です。
でもこの600年、ず〜っと同じように栄えていたわけではありません。
むしろ、「勢いに乗ってガンガン拡大した時代」→「いちばん輝いた黄金期」→「じわじわ衰退していく時代」という流れで、まるで人間の人生みたいに“成長・成熟・老い”の三拍子がしっかりそろってるんです。
この記事では、オスマン帝国の歴史を「前期(拡大)」「中期(最盛)」「後期(衰退)」の3つの時代に分けて、それぞれの特徴と流れをわかりやすくまとめてみます!
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年代 | 出来事 | 解説 |
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1299年 | オスマン帝国の建国 | オスマン1世がアナトリア西部で独立を宣言。後のオスマン帝国の基礎が築かれる。 |
1453年 | コンスタンティノープル陥落 | メフメト2世が東ローマ帝国の首都を攻略し、イスタンブールとして帝国の新首都に定めた。 |
1517年 | マムルーク朝を征服 | セリム1世がエジプトを制圧し、メッカ・メディナの保護者(イスラーム世界の宗主)となる。 |
1520年〜1566年 | スレイマン1世の治世 | 領土拡大と法整備を進め、「壮麗帝」と呼ばれる。オスマン帝国の最盛期。 |
1683年 | 第二次ウィーン包囲の失敗 | ハプスブルク帝国への遠征が失敗し、ヨーロッパへの進出に限界が見える。 |
1699年 | カルロヴィッツ条約 | 第一次大規模な領土喪失。ハンガリーなどをオーストリアに割譲。 |
1839年〜1876年 | タンジマート(恩恵改革) | 西欧化・近代化政策が進められたが、国内外の反発も大きかった。 |
1908年 | 青年トルコ人革命 | 憲法が復活し、立憲君主制が復活するが、軍部とスルタンの対立が続く。 |
1914年 | 第一次世界大戦参戦 | 中央同盟国側として参戦。戦後の敗戦により帝国崩壊が決定的に。 |
1922年 | スルタン制の廃止 | メフメト6世が退位し、600年以上続いたスルタン制が終焉。 |
1923年 | トルコ共和国建国 | ムスタファ・ケマル(アタテュルク)によって共和国が樹立され、オスマン帝国は正式に消滅。 |
この時代は、とにかく攻めて攻めて、領土をどんどん広げていった拡大期。
でも最初から大国だったわけじゃなく、アナトリア西部にあった小さなイスラム侯国からスタートしているんです。
1299年、アナトリアで「オスマン1世」がスルタンとして即位し、小規模ながら独立国家を樹立。
その子孫たちは、セルジューク朝やビザンツ帝国の崩壊に乗じて、次々に周辺領土を征服していきます。
この時代のゴールはなんといっても1453年、メフメト2世によるコンスタンティノープル陥落!
1000年以上続いた東ローマ帝国(ビザンツ)を滅ぼし、首都をイスタンブールに遷都。ここから「本格的な帝国時代」が始まります。
この時代は、オスマン帝国がヨーロッパ・中東・北アフリカを支配する大帝国に成長した“全盛期”。
スルタンのカリスマと制度の強さが噛み合って、とにかく「全方位に強い」時代でした。
特に16世紀、スレイマン1世(スレイマン大帝)の時代には、ハンガリー・エジプト・イラクまで支配し、ウィーンの城門にも迫るほど。
国内では法整備や芸術も大きく発展し、文化も軍事も政治もバランスよく整った理想的な帝国モデルになりました。
この時期には地中海最強の海軍を誇り、バルバロス・ハイレッディンの活躍もあって、海上貿易も絶好調。
建築家ミマール・スィナンや詩人バキなど、芸術面でも世界に誇るレベルの才能が次々登場しました。
最盛期を過ぎた後、オスマン帝国は少しずつ“老い”の時代に突入していきます。
軍事では敗戦が続き、政治は混乱し、民族運動や列強の圧力で領土は縮小の一途をたどります。
ウィーンを再び攻めたオスマン軍がキリスト教連合軍に大敗したことで、ヨーロッパ諸国は一気に反撃。
以後、オスマンは領土を失い続け、「ヨーロッパの病人」とまで呼ばれるようになります。
19世紀にはマフムト2世やアブデュルハミト2世が近代改革を進めるも、成果は限定的。
そして第一次世界大戦での敗北をきっかけに1922年、スルタン制は廃止され、オスマン帝国は正式に崩壊。
その翌年にトルコ共和国が誕生し、新たな時代へと移っていきます。
オスマン帝国の600年の歴史は、拡大→最盛→縮小という明確な3段階に分けて見ると、とても理解しやすくなります。
最初は勢いで進み、次に制度と文化で輝き、最後は変化に対応できず崩れていった――
まるで1人の人間が年を重ねるように、“成長・成熟・老化”の流れをたどった帝国だったんですね。