オスマン帝国が抱えていた民族問題まとめ|そりゃ病人にもなる…

オスマン帝国が抱えていた民族問題まとめ|そりゃ病人にもなる…

「ヨーロッパの病人」――19世紀のオスマン帝国は、この不名誉すぎるあだ名を、ヨーロッパ列強からつけられていました。
でも、何も“単に弱くなったから”呼ばれていたわけじゃないんです。帝国が「病人」とみなされた本当の理由は、国内にくすぶり続けた深刻な民族問題にありました。
トルコ人、アラブ人、アルメニア人、クルド人、ギリシャ人、セルビア人、ユダヤ人――オスマン帝国の中には、バラッバラの民族と言語と宗教がひしめいていたんです。
この記事では、オスマン帝国がどうして“病人”と呼ばれるほど民族問題に悩まされていたのか、その構造と歴史をまるっと整理していきます!

 

 

そもそもオスマン帝国って何民族の国だったの?

「オスマン帝国=トルコ人の国」というイメージを持ってる人も多いかもしれませんが、実はぜんぜん単一民族国家じゃありませんでした。
むしろ、多民族の上に成り立った帝国だったんです。

 

“民族モザイク国家”の実態

オスマン帝国の支配下には、ざっとこんな民族グループがいました:

 

  • トルコ人(支配層)
  • アラブ人(中東・北アフリカ)
  • アルメニア人(東アナトリア)
  • ギリシャ人(アナトリア西部・バルカン)
  • セルビア人、ブルガリア人、クロアチア人(バルカン半島)
  • ユダヤ人(帝国各都市)
  • クルド人(東アナトリア〜北イラク)

 

しかも宗教もバラバラ。イスラム教徒もいれば、キリスト教徒、ユダヤ教徒も。
帝国はこれをミッレト制度などを駆使して“なんとか”まとめていたんです。

 

帝国の“強さ”は、多様性の上にあった

実はこの多様性、最初のうちはむしろ帝国の柔軟さとしてうまく機能していました。
税や軍事、行政に異教徒や異民族を組み込み、実力主義で登用することで広大な領土を安定させていたんです。

 

でも近代化とともに、問題が噴き出していく

19世紀に入ると、“うまくいっていたはずの多民族体制”にひずみが出はじめます。
それは、ヨーロッパから吹き込まれたナショナリズム=民族自決という考え方のせいでした。

 

バルカンで独立運動が続々と

  • ギリシャ独立戦争(1821年〜)
  • セルビア独立(1830年代)
  • ブルガリア蜂起(1876年)→独立(1908年)

 

ヨーロッパ列強(とくにロシア)が「スラブ民族の解放だ!」と介入してくるようになり、そのせいでオスマン帝国はバルカン半島を次々に失っていきます

 

アラブ世界でも“民族意識”が芽生え始める

それまでは「イスラム共同体の一員」という感覚が強かったアラブ人たちも、19世紀後半には「アラブ人としての歴史・文化」が見直され、アラブ・ナショナリズムが台頭。
これが第一次世界大戦中のアラブ反乱(1916年)にもつながっていきます。

 

帝国が特に悩まされた“3つの爆弾民族”

オスマン帝国が抱えていた民族の中でも、特に深刻だったのがアルメニア人・アラブ人・クルド人の問題です。

 

アルメニア人:独立運動と“悲劇の衝突”

アルメニア人は長く忠実な臣民でしたが、ロシア帝国が“保護者”を名乗りはじめると空気が一変。
1890年代以降は独立運動が激化し、1894〜96年の虐殺事件や、第一次世界大戦中のアルメニア人虐殺へとつながっていきます。
この問題はオスマン帝国最大の民族問題のひとつとして、今もなお議論の対象です。

 

アラブ人:協力していたのに“独立”へ

アラブ人は帝国の一員として軍人や行政官にもなっていたのに、第一次大戦中、イギリスの支援で反乱を起こし、オスマン支配からの離脱を選びました。
戦後のフサイン=マクマホン書簡やサイクス・ピコ協定で裏切られた側面もあるものの、“もう一度帝国に戻る”選択肢は完全に消えてしまったんです。

 

クルド人:最後まで“国家を持てなかった民族”

クルド人もオスマン帝国に多数暮らしていた民族で、セーヴル条約では一応“自治地域”の設立が約束されたものの、実現せず。
今に至るまでクルド民族は「国家なき民族」として、トルコ・シリア・イラクなどで複雑な問題を抱え続けています

 

帝国の処方箋はなかったのか?

実はオスマン帝国も、これらの民族問題になんとか対処しようとはしていたんです。

 

オスマン主義:みんな“オスマン人”になろう!

19世紀半ばから出てきたのが「民族ではなく、法の下に平等な“オスマン市民”になろう」というオスマン主義
でも実際は、ムスリムと非ムスリムの格差が大きく、なかなか現実には浸透しませんでした。

 

パン=イスラーム主義:イスラムでひとつに!

アブデュルハミト2世は「民族じゃなく、信仰(イスラム)で団結しよう」と訴えましたが、アラブ人やクルド人には響かず、逆に非ムスリムの反発を強める結果にもなってしまいました。

 

オスマン帝国が「病人」と呼ばれた理由、それは外からの侵略だけじゃなく、内側の民族問題という“慢性疾患”を抱えていたから。
多様性の上に築かれた帝国は、ナショナリズムの時代を迎えてその多様性こそが弱点になってしまった――
でもそれは同時に、近代世界にとって「多民族共存とは何か?」という問いそのものを投げかけた存在だったとも言えます。