
オスマン帝国の長い歴史の中で、軍事制度は何度も大きな変化を経験しています。
最初は機動力と忠誠が命の騎馬軍団から始まり、やがて火器を操る歩兵軍団が台頭、そして近代には西洋式の徴兵制軍隊へと切り替わっていきました。
この変化は、ただの「武器のアップデート」じゃなくて、帝国そのものの性格の変化を映す鏡でもあるんです。
今回はそんなオスマン帝国における軍事制度の変遷を、時代ごとにざっくり整理して解説していきます!
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建国当初のオスマン軍は、典型的なトルコ系遊牧民の戦い方でした。
小回りの効く軽騎兵を中心に、スピードと包囲戦術で敵を翻弄するスタイルです。
騎兵の中心はスィパーヒーと呼ばれる封土を受け取る武装貴族。
彼らには「ティマール」と呼ばれる土地の徴税権が与えられ、その収益をもとに装備や部下を整える義務がありました。
つまりこれは“土地と軍事義務のバーター制度”だったわけです。
この制度は拡大期にはうまく機能しましたが、中央の統制が緩くなることや、火器への対応が遅れるといった弱点もありました。
オスマン軍事制度の“黄金時代”がここ。特にメフメト2世~スレイマン1世の時代は、組織力・火力・訓練すべてにおいて最強クラスでした。
歩兵の主力はイェニチェリ。キリスト教徒の少年を徴用・改宗させ、宮廷で国家直属の教育と訓練を施したエリート軍団です。
彼らは火縄銃(トゥフギ)を操り、密集隊形での銃撃戦に優れていました。
オスマン軍は大砲部隊(トプジュ)や爆薬専門部隊(フンデルチ)も早くから整備し、火器の使用においてヨーロッパより制度が先進的だったとさえ言われています。
包囲戦では特に重砲の火力が活躍し、強固な城壁を破壊する大戦果を挙げました。
でも時代が進むと、バラバラだったバランスが次第に崩れていきます。
イェニチェリは既得権益化・規律の崩壊を起こし、騎兵制度も火器化時代に対応できなくなっていきます。
イェニチェリたちは副業・結婚・世襲がOKになり、戦場よりも市場で見かけることの方が多くなるという本末転倒な状態に。
その一方で、軍事技術の面では西洋との差がどんどん広がっていきました。
18世紀にはバキバキの改革派スルタンたちが登場し、西洋式訓練・装備の近代軍をつくろうと試みます。
特にセリム3世のナイザーム=イ=ジェディード(新制度軍)は本格的なヨーロッパ式軍隊でしたが、イェニチェリの反発によって失敗。この“保守vs改革”の構図はずっと尾を引きます。
ついにマフムト2世が1826年、「豪勇事件(ヴァカ=イ・ハイルィエ)」でイェニチェリを武力解体。
これ以降、オスマン帝国は近代軍制の導入に本気で乗り出します。
ムスリム男性を対象に徴兵制(アスケリ)が導入され、一部では非ムスリムにも軍役か納税の選択制が認められるようになります。
これによって軍が国民的制度へと変化していきました。
軍事学校(ハルビイェ)や、ドイツ式の参謀組織が導入され、ドイツ軍事顧問団が軍制改革をバックアップ。
第一次世界大戦では近代化された軍隊として連合国と戦うまでに至ります。
オスマン帝国の軍事制度の変遷は、「強い常備軍→腐敗→改革→再編」という流れを何度も繰り返してきました。
とくにイェニチェリの登場と解体、そして徴兵制への移行は、“軍隊のあり方=国家のあり方”を変える転機だったんです。
帝国の盛衰を支え、そして映し出したその軍事制度は、まさにオスマンの“心臓部”とも言える存在でした。