
オスマン帝国とヨーロッパの関係といえば、どうしても「戦争」にフォーカスされがちです。もちろん戦争もたくさんありました。でも、実はそれだけじゃなくて、同盟・貿易・文化の交流もあったんです。
つまりオスマン帝国とヨーロッパって、敵同士でありながら、ときに手を組み、ときに学び合い、ときに共存していた――そんな複雑で濃密な関係だったんですね。
この記事では、オスマン帝国とヨーロッパの関係を「対立」「協調」「文化交流」「近代化と衝突」という4つの視点から紹介しながら、一枚岩ではなかったリアルな関係性をひもといていきましょう!
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15〜17世紀のオスマン帝国はまさに「拡大モード全開」の時期。
当然ヨーロッパとは、あちこちでぶつかってました。とくにバルカン半島は、その主戦場。
セルビア、ブルガリア、ハンガリーなどをめぐって、神聖ローマ帝国やポーランド王国とたびたび戦争。
特に有名なのが、1683年の第二次ウィーン包囲戦。オスマンがウィーンの城門まで攻めたものの、最後は撃退されてしまいました。
この時期、ヨーロッパでは「トルコ人=恐ろしい異教徒」としてイメージされがち。
でも実際には、その軍事力への尊敬や恐れも入り混じった複雑な感情があったんです。
戦ってばかりじゃないのが面白いところ。オスマン帝国はヨーロッパの中の“敵の敵”とちゃっかり手を組むのも得意でした。
16世紀、神聖ローマ帝国と対立していたフランスのフランソワ1世は、スレイマン1世と同盟。
この「トルコ=フランス同盟」によって、通商特権(カピチュレーション)がフランスに与えられたのは、ヨーロッパの歴史でもかなり異例です。
オスマン帝国も、ヨーロッパ各国に大使館や使節を派遣していて、国際ルールに則った本格的な外交を展開していました。
イスタンブールには、ヴェネツィア、オーストリア、イングランド、フランスの大使が常駐するなど、国際都市としての顔も持っていたんです。
敵だから文化も遮断!……なんてことは全然なくて、オスマンとヨーロッパは互いに影響を受け合っていました。
とくにファッション・工芸・建築・軍事技術なんかは、どんどん“輸入・応用”されてたんです。
18世紀ヨーロッパでは、「トルコっぽい=エキゾチックで素敵」みたいな“トルコ趣味”が大流行。
ヴェルサイユ宮殿の「トルコの間」や、モーツァルトの『後宮からの逃走』なんかはその代表ですね。
一方、オスマン側も火器・造船・印刷技術などをヨーロッパから積極的に学び、国内の近代化に活かしていました。
特に軍事技術と医学の導入には熱心で、フランス人の医者や技術者が宮廷で活躍することも。
19世紀になると、オスマン帝国は徐々に列強の政治ゲームに組み込まれていく側になります。
つまり、「対等な交渉相手」から「“東方問題”としての処理対象」になってしまうんですね。
もともとはフランスにだけ与えられていた通商・司法上の特権(カピチュレーション)が、だんだんと他の列強にも拡大。
その結果、オスマン帝国は関税を自分で決められない、外国人に裁判権がないという、半植民地的な状態に追い込まれていきます。
イギリス、ロシア、フランス、オーストリアは、オスマン帝国を「誰がどう切り取るか」でしょっちゅう駆け引きしていました。
この問題、いわゆる「東方問題」ですね。代表的なのがクリミア戦争(1853〜56)で、オスマン帝国を巡ってロシアvs英仏が火花を散らします。
オスマン帝国とヨーロッパの関係は、敵と味方、攻撃と協力、文化の対立と交流――すべてが詰まった“歴史の縮図”みたいなものでした。
だからこそ、単に「戦ってた国」として見るだけじゃなく、互いに影響を与え合った相互関係として見ると、オスマン帝国の奥行きがグッと深まって見えるんですね。