オスマン帝国に「王妃(皇后)」がいなかった理由

世界史のなかで長く続いたオスマン帝国。皇帝(スルタン)といえば、やっぱりその隣には王妃や皇后がいて…というイメージを持っている人も多いと思います。
でも実はこのオスマン帝国、明確な「皇后」や「王妃」という立場の女性が存在しなかったって、ご存じでしたか?
それってつまり「女性の地位が低かったから?」と思うかもしれませんが、実はもっと深〜い理由があるんです。
この記事では、オスマン帝国におけるスルタンの結婚観や後宮制度、さらには政治と母性の絶妙な関係について、じっくり見ていきましょう。

 

 

オスマン帝国に「王妃」がいなかったってどういうこと?

そもそもオスマン帝国では、西洋のようにスルタンの“正式な妻”が国家の女主人になるという制度がありませんでした。
じゃあ奥さんがいなかったのかというと、もちろん女性たちは後宮(ハレム)にたくさんいたんです。でもそこに「王妃」と呼ばれる存在はいなかったんですね。

 

基本は「奴隷出身」の側室スタイル

スルタンの子どもを産んだ女性(つまり皇子の母)は特別扱いされますが、それでも正式な結婚は基本的にしないというのがオスマン皇室のスタイル。
これはあえて有力な家と婚姻関係を結ばないことで、政治的な干渉を避けるという目的があったんです。
だからスルタンのパートナーたちは、多くが後宮で育てられた奴隷出身の女性たちでした。

 

「結婚しない」は戦略だった

もしスルタンが特定の貴族や他国の王族と正式に結婚してしまうと、その家の血縁や利権が政治に入り込んでくる可能性があります。
オスマン帝国はそれを避けるために、あえて「公式な王妃」を持たないことで、皇帝の中立性・超然性を保とうとしたんです。

 

じゃあ後宮の女性たちはどう扱われてたの?

王妃がいないとはいえ、後宮の女性たちがまったく権力に関わっていなかったわけではありません。
むしろ時代によっては“スルタンの母”が帝国を動かしていたほどなんです。

 

「ハセキ・スルタン」は実質的な“準・王妃”

後宮でスルタンの子ども(特に皇子)を産んだ女性は、「ハセキ・スルタン」という特別な称号をもらうことがあります。
このハセキは、後宮の中でもトップの地位を持ち、事実上の“第一夫人”的な扱いを受けていました。
特に有名なのが、スレイマン1世の愛妾であり後の妻ともされるヒュッレム・スルタンです。

 

「スルタンの母」は国家を動かす力も

スルタンの母(ヴァリデ・スルタン)は、後宮の絶対的な主であり、政治への影響力も絶大でした。
場合によっては宰相を更迭させたり、外交に口を出したりすることすらあったんです。
特に16〜17世紀の「女性たちの支配時代(カドゥンラル・スルタナトゥ)」では、歴代のスルタンの母が政局を左右する場面が多く見られました。

 

オスマン独自の“王妃を置かない制度”がもたらしたもの

じゃあ、王妃がいなかったことでオスマン帝国にはどんな影響があったのでしょうか? そこにはメリットもあれば、もちろん弱点もありました。

 

政治的な“血縁の争い”を最小限に抑えられた

西洋の王政でよくある、「王妃の出身家と王族の間での権力争い」。オスマンではそれがほとんど起きませんでした。
皇帝と貴族の間に婚姻関係がないので、血縁による派閥政治が起きにくいという点は大きな利点だったんですね。

 

でも“皇位争い”はえげつなかった

その代わりに起きたのが、皇子たちの生き残りをかけた後継者争い
「誰が正妻の子か」で決まらない分、皇子同士の権力争いが過激になって、兄弟殺し(カファス)という制度すら正当化されるようになります。 皇后がいないからこその悲劇だったかもしれません。

 

オスマン帝国には、ヨーロッパのような「王妃」はいなかったけれど、その代わりに後宮の女性たちが静かに、でも確実に歴史を動かしていたんです。
「皇后不在」の制度が、帝国に独自の政治文化を生み出していた――そう考えると、ちょっと面白いですよね。